コノトプの包囲
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1659年4月21日、午前五時頃、ミサが終わった後、モスクワ軍の総司令官は総攻撃の命令を出した。コノトプ城への砲撃が始まり、城壁が突破されたところにモスクワの兵士たちは攻め入った。しかし、フリャヌィーツィクィイのコサック隊は、彼らの進撃を食い止め、多数の敵を切り捨てて城内から追い払った。こうして、モスクワ軍による最初の強襲は大失敗に終わった。コノトプ城の防備が固く、また、その城が湿地帯に築かれていたので、モスクワ軍は都市の近くで重騎兵と大砲の力を十分に発揮することができなかった。 このような失敗を喫したモスクワ軍は総攻撃を諦めた。その代わり、城への砲撃を続けながら城の堀を埋め立てる作戦に出た。しかし、夜になると、ウクライナ・コサックたちは埋め立てられた場所の土を掘り起こして城壁を固めるのに利用し、一方でモスクワ軍の本陣に夜襲をかけた。そのような陽動作戦によるモスクワ軍の損害が大きくなったため、総司令官であったトルベツコイ公は自軍を二手に分けて本陣をピドルィープネ村の辺りに移した。 コノトプの包囲は1659年7月29日まで続いていた。その包囲の70日間に、モスクワ軍では1万余りの犠牲が出た。 フリャヌィーツィクィイの4000人の部隊がコノトプ城を守っている間に、ヘーチマン・ヴィホーウシクィイは3万のコサック軍を調え、ポーランドとクリミア汗国からも援軍を取り付けた。ポーランド側からは西ウクライナ出身の貴族を中心とした約3800人の部隊が参上し、クリミア汗国からはメフメド4世ギレイが率いる3万余りのタタール軍が馳せつけた。それに加えて、ヘーチマンの親衛部隊としてセルデューク部隊も構成された。
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