コノトプの包囲とは? わかりやすく解説

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コノトプの包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 22:04 UTC 版)

コノトプの戦い」の記事における「コノトプの包囲」の解説

1659年4月21日午前五時頃、ミサ終わった後、モスクワ軍の総司令官総攻撃命令出したコノトプ城への砲撃始まり城壁突破されたところにモスクワ兵士たち攻め入った。しかし、フリャヌィーツィクィイのコサック隊は、彼らの進撃食い止め多数の敵を切り捨てて城内から追い払った。こうして、モスクワ軍による最初の強襲大失敗終わったコノトプ城の防備固くまた、その城が湿地帯築かれていたので、モスクワ軍は都市近く重騎兵大砲の力を十分に発揮することができなかった。 このような失敗喫したモスクワ軍は総攻撃諦めたその代わり、城への砲撃続けながら城の堀埋め立てる作戦出た。しかし、夜になると、ウクライナ・コサックたちは埋め立てられた場所の土を掘り起こして城壁固めるのに利用し一方でモスクワ軍の本陣夜襲をかけた。そのような陽動作戦によるモスクワ軍の損害大きくなったため、総司令官であったトルベツコイ公は自軍二手分けて本陣をピドルィープネ辺り移した。 コノトプの包囲は1659年7月29日まで続いていた。その包囲70日間に、モスクワ軍では1万余り犠牲出た。 フリャヌィーツィクィイの4000人の部隊コノトプ城を守っている間に、ヘーチマン・ヴィホーウシクィイは3コサック軍を調え、ポーランドクリミア汗国からも援軍取り付けたポーランド側からは西ウクライナ出身貴族中心とした約3800人の部隊参上しクリミア汗国からはメフメド4世ギレイ率いる3万余りのタタール軍が馳せつけた。それに加えてヘーチマン親衛部隊としてセルデューク部隊構成された。

※この「コノトプの包囲」の解説は、「コノトプの戦い」の解説の一部です。
「コノトプの包囲」を含む「コノトプの戦い」の記事については、「コノトプの戦い」の概要を参照ください。

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