強襲ヘリコプター空母・強襲揚陸艦
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「セティス・ベイ (護衛空母)」の記事における「強襲ヘリコプター空母・強襲揚陸艦」の解説
1955年5月、セティス・ベイはサンフランシスコ海軍造船所に曳航され、最初の強襲ヘリコプター母艦への改装作業に入った。7月1日に艦種類別が CVE-90 から CVHA-1 に変更され、攻撃輸送部隊に属した。セティス・ベイのヘリコプターは、上陸作戦において海軍と海兵隊の上陸用舟艇を助け、縦方向への攻撃を行うとされた。セティス・ベイは1956年7月20日にトーマス・W・サウス2世艦長の指揮下で再就役し、六週間にわたって就役した。 9月20日にセティス・ベイは新しい母港であるロングビーチに到着。ここでキャンプ・ペンドルトン(英語版)駐留の第一海兵試験部隊 (Marine Corps Test Unit No. 1) のヘリコプター部隊がセティス・ベイへの着陸および離陸のデモストレーションを行った。この後、カリフォルニア沿岸での水陸両用作戦の訓練に参加した後、7月10日に極東に向けて出港した。12月11日にロングビーチに戻ってきたセティス・ベイは局地的任務を再開。1959年5月28日には LPH-6 (強襲揚陸艦)に艦種変更された。 1959年8月、セティス・ベイは第7艦隊の一艦として台湾で起こった水害の被災者を救出する任務に就いた。8月12日に香港を出港して台湾に向かい、第261海兵ヘリコプター中隊(英語版)の大型輸送ヘリコプターを被災者輸送に使用した。8月20日に支援を終えるまで、合計1,600,540ポンドもの物資を台湾へ輸送し、850名の被災者を避難させた。 セティス・ベイは1960年5月にキャンプ・ペンドルトンで行われた夜間演習において、所属のヘリコプターを用いて1,300名の兵員と33トンの物資を輸送する訓練を行った。これは、空母所属ヘリコプターによる最初の大規模な夜間上陸として記録された。1961年春に西太平洋で行動してロングビーチに戻った後、セティス・ベイは大西洋艦隊に配置換えとなり、同年12月上旬に、新母港ノーフォークに到着した。 次の3年間、セティス・ベイは主にカリブ海で行動した。大西洋艦隊時代のハイライトは、1962年10月に起こったキューバ危機において、自艦の上陸部隊とヘリコプター部隊を、いつでも出動できる態勢に置いた事であった。1963年9月には、ハリケーンに襲われたハイチに向かい、ポルトープランスに到着して海兵隊員をヘリコプターで輸送し、ハリケーン・フローラ(英語版)による何千人もの被災者に対して医療援助と食糧供給を行った。 1964年1月5日、セティス・ベイは不活性化工事を受けるためノーフォークを出港してフィラデルフィアに向かい、翌日到着。3月1日に退役後除籍され、同年12月にポーツマスのペック・アイロン・メタル社にスクラップとして売却された。 セティス・ベイは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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