強行遠足の発足から第七回世界教育会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 23:19 UTC 版)
「山梨県立甲府第一高等学校」の記事における「強行遠足の発足から第七回世界教育会議」の解説
1924年(大正13年)に、時の文部省より11月3日が「全国体育デー」(1927年(昭和2年)から改められ「明治節」)、同日前後が「全国体育週間」と定められた。学校では体育行事を実施せよとの通達があり、全国で2万ほどの催し物が開催され、多くは学校が主体となった体育行事であった。 甲府中学の第10代校長・江口俊博は「遠足運動」を企画し、11月3日に第一回大会が開催された。第1回大会は三班に別れ、第一班は東京方面、第二班は韮崎市の新府城往復、第三班は昇仙峡往復で、参加者が各コースを選択した。校長の江口俊博は前年6月に赴任し、その年の9月には関東大震災が発生しており、後に震災の経験から「歩く教育」の必要性を実感し、同僚の教員と相談して強行遠足を学校行事に取り入れたと述懐している。なお、強行遠足の発案者を教員の矢嶋種次とする説もある。 2年目からは松本方面へコースが変更され、「強遠足」と称した。「強行遠足」と呼ばれるようになるのは第3回からである。1929年の第6回からは信濃大町方面コースが定着。制限時間は24時間である。最高記録は1957年の甲府-簗場間(167.1km)。 1930年代末には甲府中学教員の島田武が強行遠足の普及・科学研究のため新聞に文章を発表し、島田は後年に「強行遠足の主」と称された。1937年(昭和12年)8月2日 - 8月7日には東京で開催された第七回世界教育会議において当時の甲府中学校長・隈部以忠が準備委員会・中等教育部委員に任命され、8月4日に開催された中等教育部第一会議では委員を務めている。 本番では甲府中学の強行遠足に関する発表が予定されていたが、実際に発表が行われたことは確認されない。ただし、同会に際して小冊子『本校に於ける強行遠足の意義と其の実際』が配布され、これにより甲府中学の強行遠足は全国的な知名度を得た。同冊子は英語版も刊行される予定であったが実現されておらず、本会議で強行遠足に関する発表が実施されなかったのは隈部の体調不良と英語版冊子が未完であったためと考えられている。
※この「強行遠足の発足から第七回世界教育会議」の解説は、「山梨県立甲府第一高等学校」の解説の一部です。
「強行遠足の発足から第七回世界教育会議」を含む「山梨県立甲府第一高等学校」の記事については、「山梨県立甲府第一高等学校」の概要を参照ください。
- 強行遠足の発足から第七回世界教育会議のページへのリンク