グレッグ砦とウィットワース砦
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「第三次ピーターズバーグの戦い」の記事における「グレッグ砦とウィットワース砦」の解説
ジェイムズ・H・レイン准将とエドワード・L・トーマス准将の旅団の残存部隊は、第6軍団が突破した地点とピーターズバーグの間、北東の古いディモックラインの防御線に後退した。レイン准将とウィルコックス少将は、1864年秋にボイドトン板張り道路の前線に沿って建設されたグレッグ砦とウィットワース砦に兵士を置いた。これらはボイドトン板張り道路の北西、ディモックラインの前約1,000ヤード (910 m) にあった。ウィットワース砦(時としてボールドウィン砦、アンダーソン砦、アレクサンダー砦と呼ばれた)はグレッグ砦の北600ヤード (550 m) にあった。ウィットワース砦の方が大きかったが、冬の間に近くで宿営し、いまは守備隊になっている南軍兵が焚き火のために木部を外していたので、一部が壊れていた。この2つの砦はその後方で未完成の塹壕で繋がれているだけだった。 ウィルコックスが、グレッグ砦に近い南軍の前線の小部分を再度占領するように指示した後、ナサニエル・ハリス准将のミシシッピ旅団の古参兵400名による4個連隊が到着し、2つの砦を400ヤード (370 m) 越えて前進し、近づいて来る第24軍団と出逢った。ハリスの旅団にはリッチモンドの守備兵だったロングストリートの兵士の幾らかが後に密に付いており、ディモックラインのアポマトックス川から砲台45号を保持するために、レインとトーマスの残っている部隊を補強するものとして派遣されてきた。 ナサニエル・ハリス准将の旅団が到着したのと同時に第24軍団が砦近くに到着し、軍団長のジョン・ギボンはロバート・S・フォスター准将の師団を右翼にジョン・W・ターナー准将師団の部隊を砦から800ヤード (730 m) の小さな尾根の背後に配置した。ターナー師団のトマス・T・ハリスの旅団はウィットワース砦の全面左手に配された。 ナサニエル・ハリスは後に、浸水した土地の上に部隊が配置されたために、前進する前に緩りと注意深く2列横隊を形成したので、北軍の指揮官はハリス隊の大きさを見誤ったに違いないと言っていた。それでも、ロバート・S・フォスター准将の師団の先導旅団であるトマス・O・オズボーン大佐(名誉准将)の旅団が直ちに現場で隊列を整えて突撃したので、教会道路に沿った地域を再占領していたナサニエル・ハリスとノースカロライナの部隊は、そこそこに抵抗もせずに砦の方向に後退させられた。 ロングストリート軍団のチャールズ・W・フィールド少将師団から援軍が到着してディモックラインに陣を占めるまでの時間を稼ぐために、ナサニエル・ハリス准将の旅団はトマスとレインの旅団からの分遣隊と共に、グレッグ砦とウィットワース砦で踏ん張り、その間に他の南軍部隊が主たる工作物に戻るか到着するかした。ミシシッピ第19歩兵連隊のジェイムズ・H・ダンカン中佐が指揮するミシシッピ第12歩兵連隊と同第16歩兵連隊の兵士200名が、レインの旅団の砲兵や幾らかの歩兵と共に、合計では約350名となり、グレッグ砦を守っていた。ナサニエル・ハリスが自らウィットワース砦でミシシッピ第19歩兵連隊と同第48歩兵連隊、幾らかの砲兵を含め、総勢約200名を指揮していた。グレッグ砦には3インチ施条砲2門があった。第3軍団の砲兵隊長リューベン・リンゼイ・ウォーカー准将が、ウィットワース砦にあった施条砲4門を外しておかないと、北軍に取られてしまうと確信していたので、攻撃前に除去させていた。各砦の守備兵は余分なライフル銃を集めて弾を込め、攻撃に備えて壁に沿った位置に余分な弾薬も置いていた。 トマス・O・オズボーン大佐(名誉准将)の旅団と、ロバート・S・フォスター准将の師団のジョージ・B・ダンディ大佐の旅団から2個連隊が先導となり、北軍は到着すると直ぐに砦の南にある低い尾根で800ヤード (730 m) の戦列を作り、直ちに強襲に掛かった。ハリソン・S・フェアチャイルド大佐の旅団が、オズボーンとダンディの旅団背後に予備隊とされた。ギボンの砲兵隊、ロメオ・H・スタート大尉のバーモント第3大隊とウィリアム・シアーズ中尉のニューヨーク第1独立大隊の一部がグレッグ砦の大砲を黙らせた。シアーズ隊は、ハッチャーズランから第24軍団砲兵隊がまだ来ていなかったので、ピーター・S・ミチー中佐がフィッシャー砦から借りてきていたものだった。 部分的に水が張られた壕がグレッグ砦を取り巻いていた。野原を越えて激しい砲火が砦に見舞われた後、攻撃兵の多くがこの壕に走り行ったが、水と泥の中にはまってしまっただけだった。負傷兵は水から助け出されなければ溺れてしまう危険性があった。オハイオ第67歩兵連隊の兵士が最初に壕に到達したが、壕にある水のために、後方入口の周りで進めなくなった。オハイオ第62歩兵連隊はその前進中に多くの兵士を失い、胸壁に昇るためにぬかるんだ壕の中で足場を探そうとして苦闘した。ダンディ大佐の弟であるニューヨーク第100歩兵連隊を指揮していたジェイムズ・H・ダンディ少佐が、砦の背後にたどり着こうとしているときに戦死した。ニューヨーク第100歩兵連隊の伍長で旗手のジョン・ケインは、グレッグ砦の壁に国旗を立てたことで、この攻撃中に示した勇敢さで名誉勲章を授与された。 オズボーンとダンディの部隊がグレッグ砦の前で苦闘している間に、フォスター准将がフェアチャイルド大佐の部隊から2個連隊を前面に送ったが、彼らもぬかるんだ壕の中で倒されるだけだった。フォスターの旅団が砦を奪えなかったので、ジョン・W・ターナー准将の独立師団(第2師団)のアンドリュー・ポッター中佐の第1旅団とウィリアム・B・カーティス大佐の第2旅団が攻撃に加わった。彼らは同時に砦を攻撃し、その多くが壕の中で足を止められた。14個連隊の兵士の大多数が砦の前の壕までは到着し、そこで攻撃が止まった。 総勢で4,000名が砦を攻撃し、守備隊が巻かれた砲弾を含め「泥、石、さらに様々な種類の飛び道具」を胸壁越しにかれらの頭上に投げてきたので、砦に入るまでに30分間も苦闘を続けた。ナサニエル・ハリスとその南軍の古参兵は後に、南軍は3度、4度攻撃を跳ね返した後に北軍が壕に到達したと言っていたが、北軍の証言では壕には最初の強襲で到達し、かなりの損失を出したとしていた。 守備隊は北軍が壁をよじ登ってくることに用意が出来ており、最初の攻撃部隊が胸壁に上に上がって来たときにその多くを殺すか負傷させるかした。最終的に北軍兵は砦の背後に未完の短い壕を発見しており、そちらであれば砦の胸壁に容易に登る機会を得られたはずだった。壕に入った兵士の大半が移動するか殺されるかだったので、壁をよじ登り、壕の周りを走り回って砦の後方で未完の塹壕を見つけるか、入口を攻撃するかだった。間もなくウェストバージニア第12歩兵連隊とイリノイ第39志願歩兵連隊の連隊旗が壁の頂部に到達し、さらに多くの者が後に付く動機となった。 グレッグ砦の後方にある柵を付けた入口を守るために配置されていたミシシッピ兵25名は、砦の中に入って来た大勢の北軍兵に圧倒されて、多くの損失を出すことになった。砦の後方から攻撃部隊が入ることのできたのと同時に、北軍の大部隊が胸壁の頂点に達することができていた。砦の壁の上に連隊旗が立てられた後で、ウェストバージニア第12歩兵連隊の兵士が最初に砦の中に入った部隊となった。北軍攻撃部隊は何度か銃剣突撃を行った後、単に勢力で工作物を制圧し、厳しい白兵戦が起きた後に、生き残った守備兵が降伏した。北軍の古参兵は、南軍の生存兵が最後に降伏するまでに、砦の中では小さな地域に流された死体と死に行く者の血のプールになったと報告していた。 グレッグ砦に対する強襲が終わると、ターナー師団トマス・M・ハリス准将の第3旅団がウィットワース砦を攻撃した。そこは南軍のナサニエル・ハリス准将が指揮していた。ウィットワース砦の守備隊はグレッグ砦の戦いが続いている間にその西側突出部に集まった北軍の左翼と後方から射撃を行っていた。トマス・M・ハリス准将の部隊がウィットワース砦に向けて発砲したが、グレッグ砦の戦いが続いている間は、ウィットワース砦を襲おうとはしなかった。グレッグ砦が落ちた直後にウィットワース砦も陥落した。グレッグ砦の戦いが終わると、ウィルコックスがウィットワース砦から守備隊の撤退を命じた。トマス・M・ハリス准将の部隊が遂にウィットワース砦に突撃を掛け、容易にその中に入った時には、69名または70名の兵士が降伏のために残され、それ以外には戦死者2名と負傷者2名を見つけただけだった。その他に、砦の外で15名の南軍兵が捕虜になった。 ギボンはグレッグ砦で南軍兵55名が戦死し、約300名を捕虜にしたと報告した。捕虜の多くは負傷していた。また大砲2門と連隊旗数本も捕獲した。その日のギボンの側の損失は、ほとんど2つの砦のものであり、戦死122名、負傷592名、合計714名だった。 グレッグ砦の攻撃全体で、約2時間掛かった。グレッグ砦とウィットワース砦の守備隊が貴重な時間を稼いでいる間に、フィールドの師団と他に幾つかの守備隊がディモックラインの防衛線を占めることができた。南軍の援軍が到着すると、ロングストリート軍団のフィールド師団、ゴードン軍団の2個旅団、ウィルコックス将軍の幾らかの部隊がディモックラインの主たる南軍工作物を占めていた。 グレッグ砦への攻撃を始めるときに第6軍団はギボンの左手を進み、南軍の参謀であるジャイルズ・バックナー・クックの指示で、ウィリアム・T・ポーグ中佐の大隊からの砲撃のみがそれを遮るものだった。この砲台はターンブル・ハウス、別名エッジヒルと呼ばれるリーの指揮台に隣接する陣地から操作しており、ディモックラインの前面、ロホイック・クリークの西にあった。ゲティの師団はポーグの砲撃からあまり保護されないままにターンブル・ハウス近くに移動した。ゲティはそこから自隊に向けられた大砲13門に対抗して攻撃を掛けることにした。ゲティの最初の攻撃は大砲13門からの激しい砲撃で撃退された。ゲティは続いて、エドワーズ大佐の旅団に、敵の大砲の右側面から強襲させ、ハイド大佐の旅団には左と正面から攻撃するよう指示した。ハイドの旅団がうまく敵砲台の側面を衝き、砲兵と無効化されなかった大砲9門の撤退に繋げた。フィールドの師団は南軍の砲兵がターンブル・ハウスから逃亡したときにディモックラインを占領し、一方リー将軍もターンブル・ハウスから馬で出てディモックラインの保護に向かった。このとき第6軍団の歩兵がリーが立ち去るのを視認できるほど接近した。南軍がエッジヒルから撤退した後、その夜に第6軍団の5個旅団がそこを占領した。第6軍団と第24軍団はその後、ディモックラインに対面する形で連続した前線を形成した。その夜にシーモアの師団がパークの第9軍団を支援するために派遣された後、第2軍団のモットの師団がウィットワース農園を埋めた。 ゲティの参謀であるハザード・スティーブンス中佐からの要請で、ハイド大佐とニュージャージー旅団のペンローズ大佐が、新しく到着した南軍の部隊に向かって部隊を移動し、その南軍部隊を攻撃しようとしていた。1発の銃弾がペンローズ大佐のベルトのバックルに当たって、ペンローズを落馬させたときに、ゲティは作戦を再考することになった。アポマトックス川の対岸からの砲撃に対応した後、グラント将軍は疲れていた第6軍団に戦闘を停止して休息するよう命令したので、第6軍団はターンブル・ハウス近くに幾らかの防御工作を完成させた後で休息した。
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