最初の建築作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:36 UTC 版)
1935年、京都に住んでいた義兄の近藤夫妻が、子供の自由学園への進学と東京での教育のために、自由学園の近隣で住宅地の開発が進んでいた東京府北多摩郡久留米村南沢学園町に自宅とアトリエを兼ねた住居を新築することを計画した。この設計を建築家で銀座の美貌堂の店主であった平尾敏也に依頼したが、東京にいた白井が京都の近藤夫妻に代わって様々な指示や決定を行なったため、実質的な設計のほとんどを白井が行なうこととなった。これが、白井の建築家としての最初の仕事となった。完成した邸宅は、構造としては北ヨーロッパの木造建築の技法であるハーフティンバー様式を採用しているが、屋根は瓦であるなど、和風と洋風の建築が合わさった建築であった。1936年6月号の『婦人之友』では、近藤浩一路の家として大きく取り上げられた。近藤はこの家を「土筆居」と名付け、翌年の7月に京都から移り住んだ。のちに河村敏が所有したことから、通称《河村邸》(現存せず)。
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