中間砲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:16 UTC 版)
前弩級戦艦には8インチ(203 mm)ないし10インチ(254 mm)の口径を持つ「中間砲」を持つものもあった。中間砲は、戦艦により強力な火力を持たせる手法であり、敵戦艦ないし長距離の目標を対象としていた。アメリカ海軍は他国の発達と独自に、インディアナ級、アイオワ、キアサージ級以降、1897年から1901年にかけて起工した艦を除いて中間砲を装備し、その方式の先駆となった。イギリス海軍がキング・エドワード7世級で同国の装甲巡洋艦で広く採用された23.4cm(47口径)砲の中間砲装備を復活させると、アメリカ、イタリア、ロシア、日本もそれに追随して中間砲を主砲の補助として搭載した。しかし、中間砲とは別個に対巡洋艦砲として副砲を混載するなど効率は悪かった。 一方、フランスは前弩級戦艦イエナからレピュブリク級に至るまで副砲を16.3cmに強化、更に他国の中間砲採用の時勢を見て副砲自体の口径を自国の装甲巡洋艦並みの19.4cm(50口径)単装速射砲としたリベルテ級を建造した、更に主砲と同じく副砲も電動による機力装填・電動旋回で目標追従射撃能力を高めたダントン級は24cm(50口径)連装速射砲6基を搭載した。これら後期の中間砲装備戦艦は、そのほとんどがドレッドノート出現後の完成となり、それゆえ、完成前から時代遅れとなってしまった。しかし、一部の艦は主砲用とは別個に射撃方位盤や射撃指揮装置を装備して遠距離砲戦に対応させて対艦戦闘に有用な火力を得た艦も存在しており、全くの無駄とは言えなかった。 交戦距離は装甲艦時代から引き続き増大しつづけた。1894年から翌年にかけての日清戦争では交戦距離はおおよそ2,000mだったが、1904年の黄海海戦では日露の艦隊は6,500mを隔てて戦った。交戦距離の増加の原因は、ひとつには魚雷の航走距離の増加であり、もうひとつは、砲術と射撃管制の進歩であった。結果として、造艦者は副砲の口径を、かつての中間砲と同じものまで大型化することとなった。イギリス海軍最後の前弩級戦艦であるロード・ネルソン級では、9.2インチ(234 mm)の副砲を備えていた。 中間砲、あるいは統一された大口径副砲を有する戦艦は、しばしば「準弩級戦艦」(semi-dreadnoughts)と呼ばれる。
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