中間的評価、その他の関係者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:48 UTC 版)
「小林信彦」の記事における「中間的評価、その他の関係者」の解説
永六輔 - 若い頃の一時期、小林信彦と最も多くの時間を過ごした人物。そのおかげで、小林は永の物まねがうまいという。小林ともども植草甚一から面罵されたことがある。ただし、永が製作した和製ミュージカルを、小林は酷評し「日本人にはミュージカルは無理だ」と失望した。 大伴昌司 - 評論家。小林信彦編集長時代の『ヒッチコック・マガジン』に1962年3月号「テレビ上映映画のタイトルのカットに抗議する」(「伴陀韻」名義)で初登場、その後も数回寄稿。竹内博・編『OHの肖像 大伴昌司とその時代』(飛鳥新社、1988年)では小林信彦が大伴を「嫌って、いじめていた」との証言が採り上げられたが、小林はこれを「意図的な虚偽」と否定し、1963年10月12日に小林がTBS「女性専科」にゲスト出演した折、当時同番組の台本作家のセミレギュラーだった大伴が小林の出演を知ってわざわざ追いかけてきたことを挙げ、「ぼくは63年1月に宝石社をやめて、フリーになっている。かりに、ぼくが嫌ったり、いじめたり(?)していたら、人一倍執念深く、愛憎ただならぬ大伴昌司が10月にTBSまで、わざわざ会いにくるはずがない」と反論。また小林は1966年9月に大伴からインタビューを受けた折にも「私はあなたの弟子ですから」と言われて困惑したことを述べている。 ハナ肇 - クレージーキャッツのリーダーでドラマー。俳優。小林はその善良だが押しの強い性格を敬遠したが、死後に「迷惑だが懐かしい人柄だった」と回想。一方では自他をプロデュースする才腕を早くから高く評価しており、これは山田洋次とのコンビ作から晩年の「会社物語」に至るまで話題作出演の多さで見事に証明された。 横山やすし - 売り出し時期にコント台本を手掛け、自作『唐獅子株式会社』の映画化時の主役をやすしが演じたことから本格的な交際が始まったが、深夜に酔っ払って電話をかけてくるなどのやすしの性行には閉口した。評伝『天才伝説 横山やすし』では「やすしが何者かに殴打された事件」の犯人について、ある推理を行っている。 井上ひさし - 井原高忠のもとで「九ちゃん!」の台本を共に書き、朝日ソノラマのサンヤングシリーズで『ブンとフン』を刊行した直後に、小林も『オヨヨ島の冒険』を刊行している。浅草への思い入れが深い地方出身者という点で小林の美意識に反するが、高度に技巧的なエンタテインメントを構築する作風は小林と共通していた。もっとも、その後の交友についての言及はなく、逝去の際もコメントはなかった。 植草甚一 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。小林が編集者をしてた頃の植草は気難しく、時に小林を怒鳴りつけた。この事をエッセイ「時代観察者の冒険」で書いたところ、植草本人から謝罪を受けた。 宇野利泰 - 『ヒッチコックマガジン』のご意見番の一人。『虚栄の市』に登場するゴシップ狂の老紳士・蓮池教授のモデルの一人。 長谷川修二 - 元『新青年』編集者として、『ヒッチコックマガジン』の後見人的存在の一人だった。 渡辺晋 - 渡辺プロのブレインとなった小林は、ワンパターンの喜劇映画にばかりに出演させられる植木等に義憤を感じ、「音楽屋出身で映画のことがわからない」渡辺に向かって、「3本に1本は、まともな喜劇を撮らせるべきだ」と進言したが、無視された。シンガポールを舞台にした『無責任捕虜収容所』という映画のプロットも話したが、相手にされなかった。 渡辺美佐 - 1963年、多忙な植木等のインタビューの仕事のため渡辺家に招かれ、渡辺プロ所属のクレージーキャッツのブレインを依頼され、引き受けた。 細野邦彦 - 日本テレビ・プロデューサー。1970年代前半に野球拳で人気を博した『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』や、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』などの「俗悪番組」を制作。小林は直接一緒に仕事をしたことはなかったが、日本テレビによく出入りしていて面識があり、「オヨヨ」シリーズの「辣腕プロデューサー・細井忠邦」のモデルとした。 藤脇邦夫 - 元・白夜書房営業部勤務。営業サイドの目から「良書幻想」を斬る『出版幻想論』などを刊行している。小林信彦マニアであり、唯一の個人による研究本『仮面の道化師 定本小林信彦研究』(1986年)を執筆し、当時刊行されていた全作品のレビューを行っている(なお「唯一好きになれなかった作品」ということで、取り上げられていないのが『サモアン・サマーの悪夢』)。また「小林の『下町への拘り』には、どうしても共感できない」と記している。 清水俊二 - 『ヒッチコックマガジン』で翻訳の仕事をした。 城昌幸 - 詩人、作家。ショートショートの元祖とも言われ、一般には時代小説で名高い。『宝石』編集主幹、のち宝石社社長。『夢の砦』に登場する城戸草平のモデルの一人。 松本清張 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。『夢の砦』に登場する佐伯一誠のモデル。1964年に「衰亡記」で52回直木賞候補となった際に、選考委員だった松本に冷たい選評を受けたらしきことが、短編小説「パーテイー」に描かれている。 鴨下信一 - TBSの演出家、エッセイスト。小林とは「植木等ショー」「おれが一番!!」等で、ディレクターとして仕事を一緒にした。 大橋巨泉 - 「11PM」東京は当初は、月水が小島正雄、金が大橋巨泉だった。1968年に小島がなくなった際、小林に「後任を」という話があったが断ったため、巨泉が小島の曜日も担当することになった。 高平哲郎 - 晶文社編集者として『喜劇の王様たち』復刊に貢献。親友の景山民夫を小林に引き合わせた。ただし、小林は、のちに高平が構成したテレビ番組『今夜は最高!』について批判している。 安原顯 - 破天荒な性格の名物編集者。荒木経惟と組んで『私説東京繁盛記』『私設東京放浪記』を著したのは安原の薦めによる。また、安原が編集長を務めていた頃の『リテレール』によく寄稿していた。だが没後、村上春樹が安原による生原稿流出疑惑を暴露した際には、自分も被害者である旨を公表した。 ザ・ドリフターズ - 初期に鴨下信一の依頼で番組を手伝った際に、いかりや長介の完璧主義と独特のペーソスから、後に俳優として活躍することを予見し、加藤茶の天才的なひらめきも評価したが、先輩のクレージーキャッツと比べて泥臭い芸風だったことから全体的な評価は低かった。小林に好意的だったいかりや以外とは個人的な接点がなかったこともあり、志村けんの評価も低かったが、死後、晩年の活動を由利徹やコント55号の系譜に位置づけることで喜劇人としての再評価を行っている。 リチャード・フラナガン - オーストラリアの小説家。2013年にThe Narrow Road to the Deep North(邦題『奥の細道』)という小説を発表し、小林が作った架空の作家「W・C・フラナガン」との偶然の一致が話題となった。
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