晩年の活動(中野武営と渋沢栄一)
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「中野武営」の記事における「晩年の活動(中野武営と渋沢栄一)」の解説
1891年(明治24年)に東京商業会議所が設立され、渋沢栄一が会頭に就任すると同時に、中野は常議員に就任した。渋沢栄一会頭が政府に対して、「海運拡張ノ義ニ付建議」や「営業税廃止ノ意見」などの建議をする際、中野はそれぞれの委員会の委員長として意見のとりまとめに貢献し、1897年(明治30年)には大倉喜八郎とともに副会頭に就任した。 1905年(明治38年)に中野が渋沢の後継として東京商業会議所会頭に就任した。この経緯について、渋沢は、「私は努めて公平にして且つ気力のある、所謂毅然たる大丈夫を挙げることを望みましたのであります。此希望は当時の会議所一同の所思と相合しまして乃ち中野氏が私の後継者と成られたのでございます。」(渋沢栄一談『香川新報』1919年4月12日)と述べている。 中野は会頭に就任後も渋沢との連携を保ち、特に晩年は渋沢を支えながら民間経済外交、国家的プロジェクトの推進、各種紛争の調停などに力を注いだ。 1 民間経済外交の推進 日露戦争後、「日米開戦論」さえ唱えられるように日米関係が緊張したため、中野は日米の実業界での交流促進を図ることを目指し、1908年(明治41年)、米国の太平洋沿岸商業会議所連合会の受け入れを実現した。東京、横浜、京都、大阪、神戸の五大商業会議所を中心に、各地の商業会議所と連携して一行をもてなし、渋沢もこれに全面的に協力した。 翌年、訪日の際の日本側の歓待に応じ、米国側から中野らに訪米の招請があった。中野は高橋是清らと、渋沢栄一に団長就任を要請した。こうして渡米実業団が組織され、中野は渋沢を支え、1909年(明治42年)8月から12月まで、全米約60都市を訪問し各地の知事や市長、商工会議所会頭らに歓迎されたほか、タフツ大統領やエジソンなどを訪問するなど、民間経済外交を成功させた。(『渡米実業団誌』明治42年)。さらに、加州排日土地法への対応や、渋沢が1915年(大正4年)に渡米した後提唱した、日米関係委員会の設立に協力した。 2 国家的な事業の実施 明治神宮の創建、理化学研究所の設立、第一次大戦により欧州からの重化学製品の輸入が途絶えたことを機に設立された東洋製鉄株式会社や日本染料製造株式会社、田園都市株式会社の設立など、中野は渋沢とともに、その重要性を訴え政府の積極的支援を求めたり、民間から資金を集めたりするなど、その実現を図った。 3 紛争の調停 中野は、「公明正大一点の私心を挟まず、故に実業界に起こる種々の紛擾の如き其の漸く錯綜するや推されて之が調停の労を執り、初て解決したるもの甚だ多し。畢竟するに平素信用の厚きこと、献身的熱誠があるによるものと云ふべし」(明治44年の叙勲理由)と評価されていた。中野は渋沢と連携しつつ、大学昇格をめぐり学生が総退学した東京高等商業申酉事件(1909(明治42))、日本で初めての都市公害といわれる浅野セメント降灰事件(1910(明治43)年)、配当をめぐり株主と経営陣が対立した日本郵船紛議(1917(大正6)年)、尾崎士郎の『人生劇場』で有名な、大学統治をめぐる早稲田騒動(1917年(大正6)年)など、当時の経済界や社会で耳目を引いた大きな事件の仲裁役を引き受けるなど、問題の解決に貢献した。
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