晩年の活動とは? わかりやすく解説

晩年の活動(中野武営と渋沢栄一)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 15:50 UTC 版)

中野武営」の記事における「晩年の活動(中野武営渋沢栄一)」の解説

1891年明治24年)に東京商業会議所設立され渋沢栄一会頭就任する同時に中野常議員就任した渋沢栄一会頭政府に対して、「海運拡張ノ義ニ付建議」や「営業税廃止意見」などの建議をする際、中野それぞれの委員会委員長として意見とりまとめ貢献し1897年明治30年)には大倉喜八郎とともに会頭就任した1905年明治38年)に中野渋沢後継として東京商業会議所会頭就任した。この経緯について、渋沢は、「私は努めて公平にして且つ気力のある、所謂毅然たる大丈夫を挙げることを望みましたであります。此希望当時会議所一同所思相合しまして乃ち中野氏が私の後継者成られたのでございます。」(渋沢栄一談『香川新報1919年4月12日)と述べている。 中野会頭就任後渋沢との連携保ち、特に晩年渋沢支えながら民間経済外交国家的プロジェクト推進各種紛争調停などに力を注いだ。 1 民間経済外交推進 日露戦争後、「日米開戦論」さえ唱えられるように日米関係緊張したため、中野日米実業界での交流促進を図ることを目指し1908年明治41年)、米国太平洋沿岸商業会議所連合会受け入れ実現した東京横浜京都大阪神戸五大商業会議所中心に各地商業会議所連携して一行もてなし渋沢もこれに全面的に協力した翌年訪日の際の日本側の歓待応じ米国側から中野らに訪米招請があった。中野高橋是清らと、渋沢栄一団長就任要請した。こうして渡米実業団組織され中野渋沢支え1909年明治42年8月から12月まで、全米60都市訪問し各地知事市長商工会議所会頭らに歓迎されたほか、タフツ大統領エジソンなどを訪問するなど、民間経済外交成功させた。(『渡米実業団誌』明治42年)。さらに、加州排日土地法への対応や、渋沢1915年大正4年)に渡米した提唱した日米関係委員会設立協力した。 2 国家的な事業の実施 明治神宮創建理化学研究所設立第一次大戦により欧州からの重化学製品輸入途絶えたことを機に設立され東洋製鉄株式会社日本染料製造株式会社田園都市株式会社設立など、中野渋沢とともに、その重要性訴え政府積極支援求めたり民間から資金集めたりするなど、その実現を図った。 3 紛争調停 中野は、「公明正大一点私心挟まず故に実業界に起こる種々の紛擾如き其の漸く錯綜するや推されて之が調停労を執り、初て解決したるもの甚だ多し畢竟するに平素信用厚きこと、献身的熱誠があるによるものと云ふべし」(明治44年叙勲理由)と評価されていた。中野渋沢連携しつつ、大学昇格をめぐり学生が総退学した東京高等商業申酉事件(1909(明治42))、日本初めての都市公害といわれる浅野セメント降灰事件(1910(明治43)年)、配当をめぐり株主と経営陣対立した日本郵船紛議1917大正6)年)、尾崎士郎の『人生劇場』で有名な大学統治をめぐる早稲田騒動1917年大正6)年)など、当時経済界社会耳目引いた大きな事件仲裁役を引き受けるなど、問題解決貢献した

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