カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 - 1928年)
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「レオシュ・ヤナーチェク」の記事における「カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 - 1928年)」の解説
1917年夏、ヤナーチェクは二人の子供を持つ38歳年下の既婚女性カミラ・シュテスロヴァーと出会い、魅了された。以降ヤナーチェクは生涯にわたりカミラに対し熱烈に手紙を送り続け、その数は11年間で600通以上に及ぶ。カミラが住む南ボヘミアのピーセクを訪れ家に泊まることもあったが、両者に肉体関係はなかったとされる。カミラの存在は晩年の活動に多大な影響を与えたと考えられており、たとえば『消えた男の日記』は若者がゼフカという名のジプシーに恋をする連作歌曲であるが、ヤナーチェクはカミラに対し「『日記』を作曲しているあいだ、あなたのことしか考えませんでした。あなたはゼフカであったのです!」と書いた手紙を送っている。また、管弦楽曲『シンフォニエッタ』は、カミラの前で構想が立てられた。 1918年、チェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国から独立。1919年、新政府がヤナーチェクが設立したオルガン学校を国立音楽院としたが、その院長にはヤナーチェクではなく弟子のヤン・クンツが抜擢され、ヤナーチェクはショックを受けたとされる。1926年に完成した管弦楽曲『シンフォニエッタ』は独立を果たしたチェコスロバキアに対する誇りが反映された作品で、チェコスロバキア共和国軍に捧げられた。 1920年にプラハで上演された『プロウチェク氏の旅行』は、ヤナーチェクが手掛けたオペラ作品の中で唯一初演がプラハで行われた作品であり、さらに初めて作家に頼らず独力で台本を完成させるスタイルを確立させるきっかけをつかんだ作品である。『プロウチェク氏の旅行』より後に制作された4つオペラ(『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』、『死者の家から』)はすべてヤナーチェク自身が台本を手掛けた。和田亘はその理由を、ヤナーチェクが目指した「できるかぎり自然な楽曲形成をおこなうためにはそれにふさわしい台詞が必要であった」からだとしている。なお、イーアン・ホースブルグによるとこのうち『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』は、(ヤナーチェクがカミラを通じて垣間見た)女性がもつ3つの顔を描いた三部作で、『カーチャ・カバノヴァー』は「苦悩に満ちた情熱」を、『利口な女狐の物語』は「自然な天真爛漫さ」を、『マクロプロス事件』は「冷たい不自然な美」を描いている。ホースブルグは『マクロプロス事件』と『死者の家から』について、「(ヤナーチェクの)主題の展開と探求の体系が究極的な豊かさに到達しており、オペラ化がきわめてむずかしい物語が、かえって彼の豊かな才能を十分に引き出している」と評している。1920年、ヤナーチェクはプラハ音楽院ブルノ分校の教員となり、1925年まで作曲を教えた。
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