晩年の政治活動
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「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「晩年の政治活動」の解説
グラッドストンは1894年夏から始まったオスマン帝国によるアルメニアでの大虐殺に強い怒りを感じ、20年前と同様に再びトルコ批判運動の先頭に立った。庶民院議員辞職後もその活動は続けた。1896年9月にリヴァプールで行った演説では、トルコ皇帝アブデュルハミト2世を「大量殺人犯」として糾弾した。この演説が大衆の前で行った彼の最後の演説となった。 相変わらずトルコは大英帝国の生命線であり、首相である保守党党首ソールズベリー侯爵も自由党党首ローズベリー伯爵もトルコ批判にはまるで耳を課さなかった。グラッドストンは「私に1876年の時の身体があれば、もっと強力にトルコに闘争を挑めるのだが」と口惜しがった。 1897年1月末からフランスのカンヌで過ごすことが増えた。同年3月にはカンヌを訪問したヴィクトリア女王の引見を受けた。この時、女王は78歳、グラッドストンは88歳だった。すっかり老衰して性格的にも丸くなっていたグラッドストンに、女王は思わず自ら手を差し伸べた。 女王の即位60周年記念式典の最中の同年7月10日にはハワーデン城で大英帝国植民地首相らと会談に及んだ。
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