晩年の放浪生活
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マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国領カールスバートにしばしば通った。1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という。1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った。 1880年秋からイギリス人社会主義者ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟(英語版)を結成する。この組織にはエリノア・マルクスやウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した。結局、イギリス労働運動はケア・ハーディやトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。 1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲ(フランス語版)がジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった。 パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」 と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている。 独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー(英語版)を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアのアルジェへ移った。北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った。アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女イェニーの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女イェニーは病んでいた。つづいて次女ラウラとともにスイスのヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した。
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