晩年の暦学研究、江戸追放
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「平田篤胤」の記事における「晩年の暦学研究、江戸追放」の解説
天保2年(1831年)以降の篤胤は、暦日や易学に傾倒した。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易伝』などの著作がある。上述のインド学・シナ学、そして暦学や易学の研究の芽は、いずれも『霊能真柱』のうちに胚胎していたものであった。さらに、古史本辞経(五十音義訣)や神代文字など、言語や文字の起源も研究対象とした。 天保5年(1834年)、篤胤は水戸の史館への採用を願ったが成功しなかった。天保8年(1837年)、天保の大飢饉のなか、かつての塾頭生田万が越後国柏崎で蜂起して敗死している(生田万の乱)。天保9年(1838年)、故郷久保田藩への帰参が認められた。また、この頃から篤胤の実践的な学問は地方の好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した。 天保12年(1841年)1月1日、西洋のグレゴリウス暦に基づいて江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立の運動にかかわったためともいわれる。同年4月5日、秋田に帰着し、11月24日、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった。江戸の平田塾気吹舎の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。 篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた。当時、菩提所の宗判がないと居住を許されなかったが、篤胤はこのとき生家大和田家が久保田郊外の曹洞宗寺院、正洞院の檀家であったことから同寺院を菩提所としている。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには藩校明徳館の和学方取立係であった大友直枝(平鹿郡羽宇志別神社社家)もいた。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年(1843年)9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した。68歳。法号は常行院東華大壑居士。葬儀は正洞院で盛大に営まれた。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた。銕胤は、毎年正月7日に金1歩を江戸より秋田の正洞院にとどけ、篤胤の供養を怠らなかった。 篤胤死去後の弘化2年(1845年)3月、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈った。また、没後100年となった1943年(昭和18年)8月21日には従三位が追贈されている。
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