晩年の暦学研究、江戸追放とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 晩年の暦学研究、江戸追放の意味・解説 

晩年の暦学研究、江戸追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:11 UTC 版)

平田篤胤」の記事における「晩年の暦学研究、江戸追放」の解説

天保2年1831年以降の篤胤は、暦日易学傾倒した。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易伝』などの著作がある。上述インド学シナ学、そして暦学易学研究は、いずれも霊能真柱』のうちに胚胎していたものであった。さらに、古史本辞経五十音義訣)や神代文字など、言語文字起源研究対象とした。 天保5年1834年)、篤胤は水戸史館への採用願った成功しなかった。天保8年1837年)、天保の大飢饉のなか、かつての塾頭生田万越後国柏崎蜂起して敗死している(生田万の乱)。天保9年1838年)、故郷久保田藩への帰参認められた。また、この頃から篤胤の実践的な学問地方好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した天保12年1841年1月1日西洋グレゴリウス暦基づいて江戸幕府の暦制を批判した天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府著述差し止め国許帰還江戸追放)を命じられた。激し儒教否定尊王主義忌避されたとも、尺座設立運動かかわったためともいわれる同年4月5日秋田帰着し11月24日久保田藩より15扶持給金10両を受け、再び久保田藩となった江戸平田気吹舎運営養子平田銕胤委ねられた。 篤胤は久保田城下に住み邸宅あたえられ門弟たちに国学教えた当時菩提所の宗判がないと居住許されなかったが、篤胤はこのとき生家大和田家久保田郊外曹洞宗寺院正洞院檀家であったことから同寺院菩提所としている。門人の数は秋田帰還後増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには藩校明徳館和学取立であった大友平鹿郡羽宇志別神社社家)もいた。篤胤は江戸帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作未完のまま、失意のうちに天保14年1843年9月11日久保田城下亀ノ丁病没した。68歳法号常行院東大壑居士葬儀正洞院盛大に営まれた。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点門人は553人を数えた。銕胤は、毎年正月7日に金1歩を江戸より秋田正洞院にとどけ、篤胤の供養を怠らなかった。 篤胤死去後弘化2年1845年3月白川神祇伯は篤胤に「神霊真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈ったまた、没後100年となった1943年昭和18年8月21日には従三位追贈されている。

※この「晩年の暦学研究、江戸追放」の解説は、「平田篤胤」の解説の一部です。
「晩年の暦学研究、江戸追放」を含む「平田篤胤」の記事については、「平田篤胤」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「晩年の暦学研究、江戸追放」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「晩年の暦学研究、江戸追放」の関連用語

晩年の暦学研究、江戸追放のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



晩年の暦学研究、江戸追放のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの平田篤胤 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS