晩年の勝穂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 01:48 UTC 版)
1984年(昭和59年)79歳 - 「形成(木俣修追悼号)」に「五十年の哀歓」脇須美追悼「克服された老いの美」。「短歌研究」に作品「大山の雪」。「短歌」に作品「隣冬記」。11月、地域文化功労者として文部大臣表彰。東京・上野、国立西欧美術館において表彰式に参列。歌曲「もがりぶえ」作詩、平岡荘太郎作曲。 1985年(昭和60年)80歳 - 1月、白秋生誕百年記念全国短歌大会選者。「形成」に特集作品「漣たたず」研究「白秋先生の書簡(一)(二)」。「短歌研究」に随想「修忌と紅辛夷」。「短歌」に作品「湿舌」。修忌三回忌を営む(小郡市普済寺にて)。歌曲「雁の羽根」作詩、田中雅明作曲。 1986年(昭和61年)81歳 - 「短歌現代」に作品「春の雪」「残春晩夏」。形成全国大会選者(東京・晴海)。歌曲「ばらの展覧会」作詩、溝上日出夫作曲。 1987年(昭和62年)82歳 - 歌集『青馬を見む』短歌新聞社刊。「短歌現代」に作品「二月の雪」「海をねらふ」。「短歌」に作品「いつの日か」「四十五年前の印象・自歌自解・十一月の歌」。歌曲「ジャスミン」作詩、高木東六作曲。 1988年(昭和63年)83歳 - 「歌壇」に作品「金印の島」。「短歌研究(特集・列島同時詠)」に「荒津の埼にて」に文。「短歌現代」に随想「自歌自注」。「短歌」に作品「秋なり」。「短歌新聞」に野村清「緩なるべし」評。歌曲「霧のふる夜」作詩、平井丈一朗作曲。 1989年(平成元年)84歳 - 「短歌新聞」に随想「今年の抱負」。「短歌」に歌と随想「わが『老い』の青春歌」「秀歌鑑賞」作品「翳る秋」。「歌壇」に作品「時のながれに」。「短歌現代」に作品「明治の母」。5月、日本歌人クラブ名誉会員に推される。 1990年(平成2年)85歳 - 「短歌」に評論「短歌名作の旅・中村憲吉歌集『軽雷集以後』」論文「句またがり句割れは生きる・北原白秋の歌について」。「短歌現代」に論文「北原白秋『黒檜』」「昭和の歌集戦中篇随筆」。歌曲「旅路の果て」作詩、平井丈一朗作曲。 1991年(平成3年)86歳 - 「短歌現代」に作品「玄冬低唱」「月のしたび」。西日本婦人文化サークル短歌教室(753回)の指導中に倒れる。脱水症状のため入院。その間もフクニチ新聞読者文芸短歌の選をする。その後も「短歌往来」に作品「明治の橋」。柳河九州短歌大会選者、「形成」の選を続け白秋四十九年祭に参列。歌曲「さんざしの歌」作詩、中田一次作曲。 1992年(平成4年)87歳 - 2月、肺炎にて入院。6月、母フリの五十回忌法要を営み、これより憑かれたように作歌する。「短歌」に作品「春の岬」。「形成」の選、「形成全国大会」の選、柳河九州短歌大会の選者。白秋五十年祭に参列。歌集『雲表』『海光』の再版刊行。混声合唱曲「天平の鐘」作詩、平井康三郎作曲。 1993年(平成5年)88歳 - 3月、「形成」解散のニュースが本部より先に外部から知らされ心労を極める。5月、突如「形成」解散される。7月、「形成」福岡支部歌評会に出席。9月9日、日本全国の広範な有志の要請に応えて大西民子と共に「波濤短歌会」の結成と月刊短歌雑誌「波濤」創刊を呼びかけ編集発行人となる。「形成終刊号」に作品五首。「短歌現代」に作品「天平の歌」。朝日新聞「折々のうた」に作品掲載。柳河九州短歌大会、宗像大社献詠短歌大会選者。「暁鐘」の選。白秋五十一年祭に参列。12月、「波濤」創刊号に作品「波濤によせて」。 1994年(平成6年)89歳 - 「波濤」に大西民子逝去の社告。同「博多通信」作品「悔歌(5首)」「いまはむかし・博多川(一)(二)(三)(四)(五)(六)」「白秋生家の思い出(一)(二)(三)」。6月肺炎再発により入院、12日退院、博多山笠事務所からの弁当に食が進む。8月、波濤全国大会へ祝電とメッセージを送る。10月、柳河九州短歌大会選者。「波濤」の選。「暁鐘」の選。大西民子追悼の歌七首つくる。九電「文化期集」の選。12月、福岡市文学賞の推薦文。 1995年(平成7年)90歳 - 「波濤」に「白秋生家の思い出(四)」「大西民子追悼号」に追悼歌「声からし呼ぶ(7首)」2月10日、肺炎再発入院。3月9日、90歳の誕生日。「波濤」に「『一冊の歌集』との出会い(一)(二)(三)(四)」。6月25日、筥崎の田村病院にて逝去。「波濤」は持田勝穂の逝去を社告。「波濤」に随想「ケルンを積んだ山(一)」。8月、「ケルンを積んだ山(二)絶筆」作品五首(遺詠)。
※この「晩年の勝穂」の解説は、「持田勝穂」の解説の一部です。
「晩年の勝穂」を含む「持田勝穂」の記事については、「持田勝穂」の概要を参照ください。
- 晩年の勝穂のページへのリンク