晩年の争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:23 UTC 版)
エゼルウルフは5人の息子を得、うち4人が成人した。このことは、エゼルウルフの地位を誰が継ぐかを問題にした。長子相続であれ何であれ、明確な規定も慣習もない七王国時代においては、王の代替わりがおきるたびに諍いが起きていた。エゼルウルフの治世も例外でなく、855年末子アルフレッドを伴ってローマ巡礼に赴いたときに事は起こった。Asserの伝記によれば「エゼルウルフ王がローマから戻ってくるまでに、息子(次男)エゼルバルドと取り巻きたちがとんでもないことを仕組んだ。クーデターを起こし、王を国外に追い払ってしまおうというのである」。留守を狙ったこのクーデターが内乱に発展し、全王国を東西に分けることで決着した。東をエゼルウルフが、クーデターを起こした息子エゼルバルドが西を、それぞれ領した。 その後エゼルウルフは「自分の死後、子らが不必要に争わないように」相続について取り決めた。エゼルウルフは個人的な領土と政治的な領土を、それぞれ息子・娘・親類に配分した。
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