渡辺プロ所属
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同じ水泳部だった酒井麿に誘われ、ロックバンド(EIGHT CITY'S FISH BAND(八つの街の魚) / 通称:はまちバンド)に加入。男女混合7人(男子5人、女子2人)のバンド形態で、オリジナル曲は4曲と少なかったが地元を中心に自主コンサートを行い、コンテストにも出場した。吉川の歌唱力、ルックス、パフォーマンスは求心力があり、郵便貯金ホールや広島見真講堂で行うライブはアマチュアバンドながらいつも大盛況であった。高校2年生の時に佐野元春のコンサートを見てカルチャーショックを受け、大学進学を取り止めて音楽一本に絞って勝負する決意を固めた。「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーを考えた吉川は「まずはスカウトされること」と考えたが、アマチュアバンドで有名になっていたとはいえ地方都市の一角(吉川曰く「田舎」)でのことであり、そうそうスカウトされる筈も無い。シビれを切らして自ら渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」と手紙を書いて送りつけた。なお、なぜナベプロかといえば「沢田研二、アン・ルイスなどが当時所属していたのがナベプロで、ここがいいな」と言い(吉川の回想)、他のプロダクションは知らなかった。 渡辺プロの関係者が、高松の松本明子を見に行った帰りに、本当に会いに来て、その後の数度のオーディションを経て、プロダクションと正式に契約を交わした。しかし、教師、両親や周囲から芸能界入りを猛反対された。特に父親からは「芸能界ってのは猿まわしだ。お前は東京で猿になるのか」と言われたが、「いつか自分で動いてやる」と決意を表明して説き伏せた。大学進学を断念することを惜しむ声も多かった(世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれた実績もあり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}水球の推薦で慶應義塾大学に特待生として入学できる道が開かれていたため)[要出典]。事務所側はデビューは高校を卒業してからと考えていたが、吉川本人が「今すぐにでも」と強い意志を示したため、高校3年に進級する直前に中退して上京することになった。所属していたバンド・EIGHT CITYS FISH BANDは1983年4月3日に見真講堂で単独ラストコンサートを行ない吉川を東京に送り出している(DVD『LIVE archives 25』にその一コマが収録されている)。 勢い勇んで上京したものの、吉川以外にもスカウトを受けて事務所のある東京に呼ばれた若者が大勢おり、スクールメイツと歌やダンスを練習する日々が暫く続いた。上京すればすぐに(1983年6月)ギターの弾き語りでソロデビュー出来るものと 思っていたが叶わず、いつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし社長室に行き社長に直談判したところ、その勝気で怖いもの知らずな度胸を渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなった。 実際に渡辺プロは吉川を「10年に1度の逸材」と高く評価しており、凋落していたナベプロの起死回生のため、社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクト・チームを編成するほどの力の入れようだった。「ナベプロ帝国の興亡」軍司貞則著、文藝春秋(1995年)によると、その当時渡辺プロの金庫に3億円の現金しかなく、渡辺晋は30人ほどのスタッフとの会議において、その金で吉川を売り出す方法を捻り出せ、と迫った。映画と歌の同時デビューもナベプロの肝いりで実現。吉川は渡辺晋が手掛けた最後のタレントになった。同じ事務所の大沢誉志幸が「渡辺プロは総力を挙げ吉川を売り出すからお前にかける金はない」とナベプロのスタッフから言われたという逸話も残る。
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