渡辺プロ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 06:04 UTC 版)
「NTV紅白歌のベストテン」の記事における「渡辺プロ事件」の解説
1973年、この番組と同じ時間帯に渡辺プロがNETテレビ(現・テレビ朝日)とタッグを組み、新規に『スター・オン・ステージ あなたならOK!』を水面下で計画し、それをぶつけてきた(これは、渡辺プロ以外の芸能プロダクションへも人気スターを供給し、芸能界におけるテレビ局優位の端緒となった日本テレビ制作『スター誕生!』に対抗する意図もあった)。 これを知った日本テレビの制作局次長、井原高忠(当時の同局の音楽・バラエティ番組制作部門の責任者)は渡辺プロと話し合いをしたが、渡辺プロ側は「それじゃあ、お宅の番組を打ち切るか時間を移動させればいいじゃないか」 と主張し、さらに日本テレビサイドに対して、「放送時間をずらさないのであれば今後、『歌のベストテン』にうちのタレントは出演させない」と通告してきた。日本テレビは、渡辺プロ側の要求を受け入れて『歌のベストテン』の放送時間帯を移動するか、この挑戦を受けて立つかの選択を迫られた。井原は渡辺プロ以外の全芸能プロダクションからの全面協力を得た上で後者を選択。真っ向からこの挑戦を受けた。 なお、渡辺プロ側には、当時NET系列局だった毎日放送の社長、高橋信三に『あなたならOK!』の放送枠の手配の協力を仰ぎ、再三にわたり調整した結果確保できたのがNET系列月曜20時枠だったという経緯からこれ以上枠を動かせなくなり、またこの当時は、同一時間帯の表裏番組への出演は芸能事務所単位で調整し、違うタレントでも同じ事務所なら裏被りを避ける放送業界の習慣が残っていたことから、日本テレビ側が『歌のベストテン』の枠を移動するか渡辺プロ側が『あなたならOK!』からタレント引上げるかのどちらかしか選択肢がなくなった結果前述の要求へと至り、渡辺晋と井原との個人的な繋がりや、渡辺プロと日本テレビとの関係をも犠牲にせざるを得なくなったという事情があった。 日本テレビは渡辺プロとの共同制作の金曜日22時からの新番組の予定を白紙にし、その時間帯を使い『金曜10時!うわさのチャンネル!!』を開始した。この番組には渡辺プロのタレントを一切出演させなかったが、視聴率30%台を記録することもあった。これに対し、『あなたならOK!』は出演者が渡辺プロ所属のタレントばかりとなり、他のプロダクション所属のタレントは出演しなかったこと、視聴者の音楽嗜好の変化などが響き、視聴率は低迷。番組そのものも半年でレギュラー番組としては終了した。渡辺プロの一強が崩壊する遠因にもなった。 なお、この間も『TVジョッキー』や『特ダネ登場!?』など井原が関わっていなかったバラエティ番組、読売テレビなどの系列局が制作した番組には、引き続き渡辺プロのタレントが出演していた他、太田裕美など渡辺プロのニューミュージック部門『NON STOPプロジェクト』所属歌手も引き続き出演し、渡辺プロ傘下の東京音楽学院によるスクールメイツも1977年に日本テレビ音楽学院のザ・バーズに交代するまで、バックダンサーとしての出演を継続していた。また、渡辺プロ傘下の渡辺企画と日本テレビは『前略おふくろ様』などのテレビドラマを共同制作していた。こうした形で渡辺プロは日本テレビとの関係を維持するための一定の配慮を行っていた。 毎年、日本歌謡大賞の翌週の放送回に同賞受賞者がゲスト出演することが恒例で、沢田研二(当時渡辺プロ所属)は1977年に大賞を受賞した「勝手にしやがれ」(作詞は阿久悠)で例外的に出演している。 この影響か、『速報!歌の大辞テン』など後年の日本テレビ系番組で1970年代後半の渡辺プロ所属歌手の映像を放送する際には、同社が著作権を保有する他局向け番組素材を提供していた。
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