渡辺プロ設立~事務所の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 10:04 UTC 版)
「渡辺晋」の記事における「渡辺プロ設立~事務所の隆盛」の解説
やがてジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さ等を目の当たりにしたことなどからプロダクション経営を考え始め、1955年4月、妻・美佐、松下治夫とともに渡辺プロダクションを設立した。当時、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、金銭の支払い等に不明朗なことも多かった。渡辺は、タレントを抱えたプロダクション自身が興行全体に携わることで、興行からもたらされる全利益と権利を確保しようとした。タレントのマネジメントでは、それまでレコード会社の「専属抱え」としてレコード会社と専属契約していた歌手・作詞家・作曲家を、渡辺プロとの専属契約として集結させ、芸能界初の月給制を導入した。商用音楽における権利関係にも踏み込み、レコード会社で行われていた「原盤制作」を系列の渡辺音楽出版でおこなうことで、著作隣接権の一つである「原盤権」を所有できるようにした。プロダクション業態を、興行だけでなく、著作権の一部に常に携わり印税からの収入を得られるよう改革したことにより、プロダクションには莫大な利益が得られるようになった。こうして巨大化した渡辺プロはナベプロ帝国と呼ばれ、渡辺夫妻は芸能界のドンとして君臨するようになった。 政財界にも強力なコネクションを持ち、マスメディアがナベプロを批判することはタブーとなった。面倒見がいいことで知られ、中尾ミエや梓みちよも渡辺の家に住まわせていた時期があった他、学生タレントの学費や家の建築費等も事務所が負担した事もあったという。一方で仕事に対しては非常に厳格な事で知られ、重役会議等でもタレントの売り出し方や曲の詞やタイトルの意味、楽曲の曲調、コンセプトにいたるまで厳しく詰問する事が多かったという。 また先見の明も優れており、自身の出自であるジャズだけでなく、当時異端視されていたロカビリー、ソウルミュージック、ゴスペル等を当初から高く評価、何れも自社の若手歌手に歌唱させ流行させたばかりでなく、その後の長きに渡り定着させる礎を築いた。 自身の持説は「自社のタレントには音楽性、芸術性を高めるよりも大衆受けを高めろ」というものであったといい、自社の歌手やアイドルにも「ステージ上では常に背筋を伸ばし、笑顔を振り撒け。」と指図していたという。また「タレントは偶像であるべし。」という思考をもっており、当時喜劇俳優として全盛期であった植木等が恩師と対面する番組に出演するというオファーがあった際は、植木の真面目な地が出て無責任男のイメージが崩れるという理由で固辞させたという。また一部の女性アイドルの恋愛遍歴等も今日と異なり明かさせず、天地真理やキャンディーズ等は、雑誌の対談企画などで処女である事を強調させ、純潔なイメージを死守させた。
※この「渡辺プロ設立~事務所の隆盛」の解説は、「渡辺晋」の解説の一部です。
「渡辺プロ設立~事務所の隆盛」を含む「渡辺晋」の記事については、「渡辺晋」の概要を参照ください。
- 渡辺プロ設立~事務所の隆盛のページへのリンク