ロカビリー[rockabilly]
ロカビリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/06 03:20 UTC 版)
ロカビリー Rockabilly |
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様式的起源 | ブルース、カントリー・ミュージック、R&B |
文化的起源 | 発祥は1950年代中期![]() |
使用楽器 | ギター ウッド・ベース(コントラバス、アップライト・ベース) ベース ドラム ボーカル ピアノ アコースティック・ギターなど |
融合ジャンル | |
ロックンロール | |
関連項目 | |
下欄を参照 |
ロカビリー(rockabilly)は、1950年代に誕生したポピュラー音楽の一ジャンル。ロッカビリー(Rock-A-Billy)とも呼ばれた。代表的なミュージシャンには、エルヴィス・プレスリーやカール・パーキンスらがいた。最初のロカビリー・レコードについては、諸説ある。[1]
概要

ロカビリーは、ロックンロール音楽の最も初期の様式の1つであり、その誕生はアメリカ合衆国南部の1950年代にさかのぼることができる。ロカビリーは、ブルースやR&Bと、カントリー・ミュージックの混合体として説明される場合が多い。 ロカビリーという用語自体は、「ロック」と「ヒルビリー」の合成語であり、ヒルビリーはカントリー・ミュージックと呼ばれる以前のジャンルに与えられた名称だった[2]。ロカビリーに重要な影響を与えたジャンルには、ブルース、ウエスタン・スウィング、カントリー、ブルーグラス、ブギウギなどがあげられる[3]。
詳細
ロカビリーサウンドの特徴としてはスラップ奏法のウッドベースと、ドラムスによるビート、シャウトするボーカルがあげられる。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ[注 1]、エルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス[4] エディ・コクラン[注 2]、ジェリー・リー・ルイス[注 3]、ジーン・ヴィンセント[注 4]、バディ・ホリーらによって1950年代後半に普及した。60年代半ばから70年代前半には衰退したが、ノスタルジー・ブームの後押しもあり、1970年代後半から1980年代初頭にかけてネオロカとして復活した。ロカビリーは、サイコビリー、カウ・パンクなどのサブ・ジャンルを生み出した。
主に白人ミュージシャンによるロックンロールの中で、特にカントリー・アンド・ウェスタンの要素が強くビートを強調したものをロカビリーと呼ぶ[5][6]。アコースティック・ベース(ウッド・ベース、ライトアップ・ベース)を使い、スラップ奏法が取り入れられた。70年代末以降のネオロカ・スタイルでは、ウッドベースがより強調されるようになった[注 5]。
歴史
1950年代

1950年代初期のアメリカ南部、メンフィスなどの地域において、黒人音楽のブルースと、白人音楽のヒルビリーやカントリー、ブルーグラスが融合して生まれた。
白人歌手によりロカビリーが流行した時期は、1954年ごろからの数年間である。1950年代当時のロカビリーは、ビル・ヘイリーと彼のコメッツ[注 6]やエルヴィス・プレスリー[7]らの人気シンガーがブームの牽引役だった。ウッドベースによるダイナミックなスラッピング奏法も、1957年頃には近代的なエレキベースに取って代わられ、ロカビリー人気は下降線をたどった。
さらにエルヴィス・プレスリーの徴兵、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーらの事故死[注 7]は、ロカビリー及びロックンロールに大きな打撃を与え、1960年半ばまでにはロカビリーは衰退した。なお、日本でも踊られたロカビリーのダンスには、ジルバ(戦前にルーツを持つアフロアメリカン由来のJitter bug)などがある。その後、ジルバに代わって、ツイストがブームとなった。
歌い方はしゃっくりするように語尾をしゃくりあげる「ヒーカップ唱法」、吃音する(どもる)かのように口ごもって発音する「マンブリング唱法」、従来からのカントリー系の歌唱方法であるホンキートンク唱法がある。ロカビリーに欠かせない音楽的、特に器楽の特徴として、1920年代から1930年代における黒人系スウィングバンド、とりわけベーシスト特有の奏法である「スラッピングベース奏法(スラップ奏法)」[注 8]が挙げられる。この奏法では、ウッドベース(コントラバス)の弦を指で引っ張りつつ滑離し、低音とネックに当たる中高音をミックスさせた音を出し、更に手の平で弦をネックに叩きつけてパーカッション的効果を出す。
ギターにおいては、カントリーやロカビリー向けの奏法のひとつ、ギャロッピング奏法が用いられることが多く、エディ・コクランが用いたグレッチや、ギブソン社のフルアコースティックギター(スコティ・ムーア)で、ホロウ・ボディのギター以外にも、カントリー用として開発されたテレキャスターも重要である。ちなみに、ジェームズ・バートン[注 9]はミスター・テレキャスターの異名を持つ。
1960年代
1962年のビートルズのデビューと、彼らを中心とした1964年以降のブリティッシュ・インヴェイジョンは、ロカビリーやロックンロールを抽象的な「ロック」に変えた。この新しいロック・ムーヴメントにより完全に廃れたロカビリーだったが、そんな時期に孤軍奮闘したのがシャ・ナ・ナである[8]。彼らは1969年の「ウッドストック・フェスティバル」に出演し、1970年代前半には「シー・クルーズ」などをカバーした。
1970年代以降
1970年代のパンク・ロックに影響を受け70年代末から80年代前半には、ストレイ・キャッツやロバート・ゴードン、シェイキン・スティーヴンス、ブラスターズらを中心にしたネオロカビリー(Neo Rockabilly)[9]のブームが訪れた。ネオロカビリーは短縮形で「ネオロカ」とも言う。またネオロカの流行にいち早く目をつけたクイーンが、「愛という名の欲望」(1980)を発売し、大ヒットさせるといった現象も見られた。
日本のロカビリー

日本で、1956年にいち早くエルビス・プレスリーをカバーしたのは、カントリー歌手の小坂一也だった。小坂のロカビリーは、ロカビリー三人男よりも2年早かった。 1957年には新宿のジャズ喫茶が次々とロカビリー喫茶に模様替えする出来事もあった[10]。 1958年、カントリー・ミュージックのバンド「オールスターズ・ワゴン」に在籍していた平尾昌晃がソロ・デビューし、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と共に「ロカビリー三人男」と称され「日劇ウエスタンカーニバル」などに出演、日本でロカビリー・ブームが巻き起こった。やがて和製プレスリーと呼ばれた尾藤イサオもデビューしている。他に鹿内孝、鈴木ヤスシ、藤木孝、麻生レミ、スイングウエスト、佐々木功(後のささきいさお)、内田裕也、かまやつひろしらも、ロカビリー、ロックンロール歌手、グループとして活動した。スイングウエストはウエスタン・スウィングからロカビリー、グループサウンズ時代まで、息の長い活動を続けた。だが、60年代後半にはグループサウンズ・ブームに押され、ロカビリー、ロックンロールは退潮傾向となった。
1958年に開始された日劇ウエスタンカーニバルに出演した、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らの音楽やファッションに影響を受けたロカビリー族が登場した[11]。ウエスタンカーニバルや新宿コマ劇場のロカビリー大会『これがロカビリーだ』における女性ファンはカブリツキ族と呼ばれていた[12][13]。カブリツキ族は、週刊サンケイ(1958年/昭和33年)、実話雑誌などに記事が見られる。1959年にはロカビリーの熱狂ファンを描いた小説『東京のプリンスたち』が登場し、同年にテレビドラマ化された。
その後1970年代には、オールド・スタイルのバンドとして矢沢永吉のキャロルがデビューし特に暴走族より支持を集め、その暴走族からクールスもデビューした[14]。
1976年、原宿にアメリカ50sファッション(フィフティーズ)のショップ クリームソーダが登場し[15][16]、1977年、原宿に歩行者天国(ホコ天)が設けられると、前述のキャロルなどの影響を受けて原宿のホコ天にロカビリーを踊るローラー族が登場した[17]。原宿のローラー族によりジルバなどのダンスが踊られた。ローラー族からはミッキー岡野が芸能界入りした[14]。
1970年代末から80年代には、ネオロカビリー・ブームにより、50sファッションやコントラバスをスラップする演奏スタイルが見られた。BLACK CATSやヒルビリー・バップス等のバンドが登場し、オールディーズ・グループ、ザ・ヴィーナスの「キッスは目にして!」がヒットした。
ロカビリーの音楽評論家としては、鈴木カツが活躍した。鈴木カツはロカビリー、カントリーだけでなく、R&Bなどの黒人音楽にも造詣が深かった。2005年、湯川れい子・小野ヤスシ・高田文夫らにより、「全日本ロカビリー普及委員会」が発足。その会長にロカビリー・シンガーのビリー諸川[注 10]が就任した。
代表的なミュージシャン
ロカビリー(1950年代)
- ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ[18]、エルヴィス・プレスリー[注 11]、ジェリー・リー・ルイス[注 3]、カール・パーキンス[注 12]、ジーン・ヴィンセント[注 4]、エディ・コクラン、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ジョニー・キャッシュ、ジョニー・バーネット・トリオ、ロイ・オービソン、タヒール・スリム、ソニー・バージェス、カール・マン、ウォーレン・スミス、ワンダ・ジャクソンなど。
ロカビリー(1960年代末~70年代)
- シャ・ナ・ナなど。
ネオ・ロカビリー
- ロバート・ゴードン、ストレイ・キャッツ、タフ・ダーツ、ブラスターズ、シェイキン・スティーヴンス、ザ・ダーツ、レイ・キャンピ、マッチボックス、ブルー・キャッツ、シェイキン・ピラミッズなど。
派生ジャンル
- サイコビリー[19](Psychobilly)
- ロカビリーとパンク・ロック、ガレージ・パンク等のジャンルとの融合。
- バットモービル、ディメンテッド・アー・ゴー、マッド・シン、メテオス、ザ・クランプス、ヘイジル・アドキンス、モジョ・ニクソン、サザン・カルチャー・オン・ザ・スキッズなど。
脚注
注釈
- ^ 「シー・ユー・レイター、アリゲイター」もヒットした。
- ^ 代表曲に「サマータイム・ブルース」などがある。
- ^ a b 「火の玉ロック」で有名。同曲はフランスのミッシェル・ポルナレフもカバーした。
- ^ a b ビートルズのアイドルだったロッカー。彼の曲はビートルズが全てマスターしたという。特に「ビー・バップ・ア・ルーラ」は、ジョン・レノンがアルバム『ロックン・ロール』でカバーしているほか、ポール・マッカートニーもアルバム『公式海賊盤』でカバーしている。
- ^ ネオロカにはストレイ・キャッツ、ロバートゴードン、タフ・ダーツらがいた
- ^ 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットした。
- ^ バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ポッパーは同じ飛行機での事故で死亡した。エディ・コクランは交通事故での死亡
- ^ ストレイ・キャッツのベーシストのウッド・ベース・プレイに典型的に見られる。
- ^ エルヴィス・プレスリーのギタリストである。
- ^ ラジオ日本で「This Is Elvis」という番組を担当した時期があった。「インテリが大キライ」と発言。
- ^ 「ザッツ・オールライト」「ハウンド・ドッグ」など、アメリカでは大量のヒット曲がある。
- ^ 代表曲に「ブルースエード・シューズ」がある。
出典
- ^ Charlie Gracie 最初のロカビリー曲については、チャーリー・グレイシー、ビル・ヘイリー、デイヴィス・シスターズなど、諸説ある。 Culturesonar.com 2025年8月6日閲覧
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、87頁。ISBN 9784309225043。
- ^ ロカビリー 2022年11月2日
- ^ “RAB Hall of Fame: Carl Perkins”. Rockabillyhall.com. 2021年12月6日閲覧。
- ^ “ROCKABILLY Definition”. Shsu.edu. 2021年12月7日閲覧。
- ^ Craig Morrison. “rockabilly (music) - Encyclopædia Britannica”. Britannica.com. 2021年12月6日閲覧。
- ^ http://rockabillylegends.com/elvis-presley/
- ^ シャナナ 2022年9月30日閲覧
- ^ http://www.last.fm/tag/neo+rockabilly/artists
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、79,80頁。 ISBN 9784309225043。
- ^ ロカビリー族 2023年10月10日閲覧
- ^ 『時事通信 (3728) 時事解説版』 時事通信社 1958年4月
- ^ 篠田隆司「風俗的前衛たちの戦後史 かつてぼくらは若者だった」『新評 27(8)』 p.46 新評社 1980年8月 [1]
- ^ a b 『昭和の不思議101 2019年夏の男祭号』 pp.175-177 大洋図書 2019年6月3日 ISBN 978-4813027270
- ^ 50sロカビリーブームの始まり。原宿〈PINK DRAGON〉カルチャーの震源地へ Vol.1 マガジンハウス 2021年2月1日
- ^ 加藤明『原宿物語』 p.102 草思社 1986年7月 [2]
- ^ ロックンローラーやパンクスをモノクロームで撮り続けてきた、写真家・元田敬三 interview ヴァイス・メディア 2023年6月29日
- ^ Bill Haley2020年12月2日閲覧
- ^ Psychobilly Allmusic 2025年8月4日閲覧
関連項目
外部リンク
- Rockabillyとは何か (参考文献論文の要約版)。藤沢宏樹, 志水照匡、「Rockabillyとは何か--Elvis Presley SUN時代の楽曲分析」『研究紀要』 (36), 74-84, 1997-12, NAID 110009394039, 福島
- ハイティーンまかり通る(昭和33年3月14日公開) - 中日ニュース217号(動画)・中日映画社
ロカビリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:59 UTC 版)
「カントリー・ミュージック」の記事における「ロカビリー」の解説
詳細は「ロカビリー」を参照 1950年代、カントリー・ファンの間でロカビリーは最も人気があり、1956年は「ロカビリーの年」とも呼ばれた。ロカビリーはロックンロールとヒルビリー・ミュージックの合成語である。この頃、当時音楽業界で大きな役割を担っていたエルヴィス・プレスリーがカントリー・ミュージック界に進出した。56年の『ビルボード』ポップの「年間チャート」の第4位はプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』、第21位はカール・パーキンスの『ブルー・スエード・シューズ』だった。 1958年、プレスリーの『Don't(ドントまずいぜ)』が年間第7位となった。プレスリーはリズム・アンド・ブルースの影響を受けており、彼のスタイルについて彼は「私が物心つく前から有色人種の方々が演奏してきたものを今私がやっているだけ」と語った。しかし彼はさらに「私のスタイルはカントリーをテンポよくしただけ」とも語っている。数年の間で多くのロカビリー・ミュージシャンが流行りのスタイルに回帰し、それ以外の者が独自路線を確立した。 1955年から1960年、ミズーリ州スプリングフィールドからテレビ局ABCおよびラジオの『Ozark Jubilee 』が全米放送され、カントリー・ミュージックの番組が増えた。1956年、ウエブ・ピアスは「昔々、ニューヨークなどではカントリーは売れなかった。現在テレビ局は私たちをどこにでも連れて行き、カントリーのレコードは大都市を含めてどこでも売られるようになった」と語った。 1950年代後期、ラボック・サウンドが登場したが、終盤、その反動でレイ・プライス、マーティ・ロビンズ、ジョニー・ホートンなどの伝統的なアーティストが1950年代中期に影響を受けたロック界からシフトし始めた。
※この「ロカビリー」の解説は、「カントリー・ミュージック」の解説の一部です。
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