ロカマドゥール巡礼
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「ロカマドゥール」の記事における「ロカマドゥール巡礼」の解説
巡礼の最終段階は、自らの膝をついて聖なるシテ(7箇所の教会、19世紀に修復されたその他12箇所の礼拝堂)へ至る216段の階段を上がることである。頂上にたどり着いた後聖域の内部に達し、巡礼者たちが常に様々なオブジェを奉納してきたのを目にする。最もよく知られているのは、罪人が自らに巻きつけられていた鎖から解放された後、鎖を奉納したことになぞらえ、鉄を奉納することである。また、19世紀から20世紀には救出された船乗りが感謝の意を表し大理石に彫られた彫像を奉納したりした。巡礼者を表す記章はスポルテル(sportelle)である。 聖アマドゥールのなきがらの掲示よりもはるかに多く奇跡をもたらしたのは、『黒い聖母の風』であろう。船乗りが海で救援を求める鐘を、チリンチリンと鳴らしたという奇跡の鐘の合図である。船乗りの業界でロカマドゥールの聖母に対する認識が深まると、フィニステールやケベックにある数箇所の礼拝堂でロカマドゥールの聖母が崇敬を獲得するまでになった。教会はまた、ロカマドゥールに向かい苦行と聖体の秘蹟を受ける人々に対し永久的な贖宥状を与えることにして、巡礼を奨励した。最も有名なのは規模の大きなパルドンで、聖体祭のサン・ジャン・バティストの日(7月24日)に行われる。大パルドンの日に贖宥状が与えられ、およそ3万人の群集がロカマドゥールに集まった。 巡礼と巡礼者の詳細に加え、1172年以降に記された写本『ロカマドゥールの聖母の奇跡の書』は、中世の日常生活における多くの情報が記されている。中世の精神性における奇跡の意味として、医学の要素、スピリチュアルな要素、マリア教義、歴史的興味などが報告されている。上記のものには、ベアルン伯ガストン5世の妃であったアラゴン王女サンチャに課された試練などが含まれる。ロカマドゥールの聖母の奇跡の書には新版があり、歴史家レジーヌ・ペルヌーの序文と、ジャン・ロカシェール(トゥールーズのカトリック大学名誉教授)によって注釈がつけられた。 教会裁判所、そして時に民事裁判所もしばしば罪人にロカマドゥール巡礼を課した。それは大きな苦行だった。特に異端カタリ派は神の母を憎んでいるとみなされていたからだ。しかし、巡礼が常に信仰篤い行動を行う目的でロカマドゥールにやってきたのではない。領主や都市のコンシュルといった者たちは、条約を締結したり憲章に署名するなど重要な決定を下す際には、聖母の保護下に自分の身を置くことを好んだ。 ロカマドゥールは、かつては全身が銀で覆われていたという黒い聖母をいただき、聖母に対する非常に古い巡礼の歴史を持つ。黒い聖母はその後、ル・ピュイの聖母やトゥールーズのドーラドの聖母のように、マントを着せられるようになる。この聖母像は聖域のてっぺんにある礼拝堂の1つに収められている。 他には、一説によると、大天使ミシェルによって運ばれたローランの剣、デュランダルもこの地にある。
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