副砲と高角砲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:35 UTC 版)
前弩級戦艦の時代は、近距離砲戦が主体であり、発射速度に優る多数の副砲が役に立った。 水雷艇が登場すると、これに対処するために副砲よりもさらに小型で、取り回しのよい砲を搭載した。また主砲は4門搭載する時代がしばらく続いたため、各国は戦艦の砲力拡大の際には、副砲を大型化、あるいは副砲より大型で主砲より小型の中間砲を装備する例がみられた(準弩級戦艦)。 その後、弩級戦艦の始祖たる「ドレッドノート」において、主砲の門数を10門に増加させた。そして多数の主砲を艦橋からの一元的な射撃管制により、遠距離砲戦での命中率を高め、搭載砲を主砲と対水雷艇用の7.6cm(3インチ)速射砲とし、それ以外の砲を廃止した。しかしながら続いて弩級戦艦を建造した他国海軍は、副砲を残した。弩級戦艦以降の副砲は、戦艦同士の近距離砲戦を目的としたものではなく、水雷艇、それより発達した駆逐艦などの、小型艦艇への対処を目的としたものとなった。主砲は旋回速度、単位時間あたりの射撃速度が低く、小型高速の艦への対処が困難だったためである。イギリス海軍も駆逐艦への対処のため、対水雷艇用であった速射砲を大型化し、事実上の副砲の復活となった。 前弩級戦艦時代から超弩級戦艦の時代にかけて、戦艦の副砲は、舷側にケースメイト配置され側方を指向する設計が多かった。日本では長門型までがこの形態である。一方で準弩級戦艦においては、中間砲は砲塔形式とし、舷側に配置するのが通例であった。1920年ごろより、副砲についても中間砲と同様に、連装または3連装の砲塔形式とし、2基を高い位置の船体中心線上に、残りを低い甲板上の側面に配置することで前方・後方・側方いずれに向けても一定数の砲門数を指向できる設計となった。ノースカロライナ級・大和型などがこの形態である。他に舷側に砲塔形式で前後方から2段の背負式配置とすることでやはり前方・後方・側方いずれに向けても砲門数を指向できる設計がキング・ジョージ5世級などに採用された。 アメリカが1934年に制式化した38口径5インチ砲(12.7cm砲)は、対艦射撃にも対空射撃にも使える両用砲だった。以後のアメリカの戦艦は副砲と高角砲をこの5インチ両用砲に一本化し、連装砲塔に納めて搭載した。イギリスも1940年に50口径5.25インチ両用砲(13.3cm砲)(en:QF 5.25 inch gun)を制式化し、アメリカと同じく副砲と高角砲を統合して、キング・ジョージ5世級に連装砲塔で搭載したが、副砲としての性能には問題がなかったものの高角砲としては速射性に欠けるなど欠点の多い砲だった。日本は両用砲の開発に遅れを取り事実上開発に成功しなかったので[要出典]副砲と高角砲の両方を装備し続けたが、大和型の15.5cm三連装副砲に零式通常弾・三式弾を組み合わせての対空射撃は効果的で速射性も良かったと用兵側には好評であった(しかし艦隊全体での絶対的な高角砲の門数が不足しており、また近接信管が開発されず旧来の時限信管しか使用しなかったことも日本海軍艦隊の防空能力の不足につながった)。 一方高角砲については、1920年ごろまでは航空機が未発達で戦艦の脅威になるとは全く考えられていなかったため、高角砲の搭載はされなかった。1920年ごろより高角砲の搭載が始まったが、この頃は7.6cm単装高角砲を4門と少威力・短射程の高角砲を少数積むのみであった。1930年ごろより次第に航空機の脅威が考慮し始められ、長門型では改装時に12.7センチ連装高角砲4基8門を搭載した。ヴィットリオ・ヴェネト級は新造時より9cm単装高角砲12門を搭載、ビスマルク級では10.5cm高角砲連装8基16門と3.7cm高角砲連装8基16門を搭載した。アメリカが高角砲に替わり5インチ両用砲を装備したのは前述のとおりだが、その門数としては1941年就役のノースカロライナ級で連装10基20門であった。 第二次世界大戦が始めるとすぐにタラント空襲・真珠湾攻撃・マレー沖海戦と航空攻撃によって戦艦が撃沈される事態がたてつづけに起こったため防空能力の強化が考えられ、旧型の戦艦では副砲を降ろして高角砲を追加する改装が行われた。しかし改装を行なっても金剛型で12.7cm砲12門に留まるなど、新造の時点で対空装備が重視されていたノースカロライナ級・サウスダコタ級・アイオワ級の5インチ両用砲20門には劣った。
※この「副砲と高角砲」の解説は、「戦艦」の解説の一部です。
「副砲と高角砲」を含む「戦艦」の記事については、「戦艦」の概要を参照ください。
- 副砲と高角砲のページへのリンク