怒和島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/13 06:17 UTC 版)
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怒和島 | |
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所在地 | 日本(愛媛県) |
所在海域 | 瀬戸内海 |
座標 | 北緯33度59分0秒 東経132度33分0秒 / 北緯33.98333度 東経132.55000度座標: 北緯33度59分0秒 東経132度33分0秒 / 北緯33.98333度 東経132.55000度 |
面積 | 4.81 km² |
海岸線長 | 13.5 km |
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松山市北西部、山口県・広島県に海をはさんで向かい合う忽那諸島の一島。
地理
- 忽那諸島で最も大きい中島の西にあり、西には最も狭い区間で約1kmの津和地瀬戸を挟んで津和地島がある。およそ10キロメートル北に広島県の倉橋島がある。南には二子水道をはさみ3km沖に二神島がある。
- 島全体が一つの山となっており、南北にやや細長形をしている。中島本島との間の約2.4kmのクダコ水道は急流で知られ、中央のクダコ島(地図 - Google マップ)にクダコ灯台があり、周囲は潮流にもまれた魚が群れる好漁場となっている。
- 怒和島 - 地理院地図
- 怒和島 - Google マップ
地名の由来
怒和は、鎌倉時代の古文書にも見られる古くからの地名である。康応元年3月に足利義満が安芸国厳島神社を参拝した際の記録に、安芸国蒲刈島に向かう途中「ぬわ」以下の島々が見えるとある(鹿苑院殿厳島詣記)。[2]
社会
地域・集落
元々は倉橋島から島の北部に移住したのが始まりといわれる[3]。当初は一つの集落であったとみられるが、天正13年小早川軍に攻略され、また冬の季節風の影響を避けるため、何時の頃からか(江戸時代初期には既に2村に分かれていたという<[2]>)移り住み[注釈 1]、島の東には上怒和、西に元怒和の2つの集落ができた。離島航路がそれぞれに寄航している。2つの集落は愛媛県道206号上怒和元怒和線にて結ばれている。以前には元怒和に神和村の役場があったため、商店なども数軒ある。
人口
- 2015年7月1日現在 人口:409人(上怒和:175、元怒和:234 )
- 世帯数:209戸(上怒和:78、元怒和:131 2015年7月1日現在[注釈 2])
- 2020年 世帯数153、人口278(元怒和90世帯、157人。上怒和63世帯、121人)国勢調査による
学校
小中学校共に休校ないし廃校となっており、島内にはなくなっている。
- 小学校:1校(2019年3月休校)
- 中学校:1校(2005年3月閉校)
公共(的)施設
歴史
時期不明ながら倉橋島から移り住んだ。
藩政期は大洲藩領。
産業
- 農業 - 柑橘類栽培。近年、品種改良にて登場した晩柑類(紅まどんな、せとか、カラマンダリン他)が多種栽培され、高級品として人気が高まっている。また、レモンの島として名を馳せる。その他に玉ねぎ等の野菜も多い。
- 水産業 - 一本釣り主体に、貝類、海藻類の採取が盛ん。また、各種魚種の海面養殖を試みている。
交通
- 元怒和港及び上怒和港が唯一の島外との交通手段。
- 愛媛県道206号上怒和元怒和線 - 島内の上怒和と元怒和を結ぶ。
脚注
注釈
出典
関連図書
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典38 愛媛県』角川書店、1981年、511頁、911-912頁
外部リンク
- 怒和島(松山離島振興協会)
- 愛媛県温泉郡神和村(38B0050019) | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ
怒和島(ぬわじま)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 09:04 UTC 版)
1942年(昭和17年)11月15日竣工。(大阪鉄工所)。1945年(昭和20年)4月30日佐伯湾にて航空機の攻撃を受け大破かく座。
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