昭和十八年以降の戦い
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「鳥海 (重巡洋艦)」の記事における「昭和十八年以降の戦い」の解説
1943年(昭和18年)2月15日、鳥海は空母2隻(隼鷹、冲鷹)、戦艦2隻(金剛、榛名)、水上機母艦日進、重巡利根、駆逐艦部隊(時雨、大波、黒潮、陽炎、嵐)と共にトラック泊地を出港するが、悪天候のため航空隊を収容できなかった3隻(隼鷹、陽炎、黒潮)はトラックへ引き返した。2月20日、鳥海は横須賀へ帰還した。 3月上旬、日本陸軍第十四飛行団(陸軍三式戦闘機「飛燕」装備)のラバウル進出が決定する。鳥海は駆逐艦4隻(漣、響、黒潮、親潮)と共に、三式戦部隊を搭載した空母2隻(大鷹、冲鷹)を護衛して4月4日に横須賀を出発した。4月8日夜、待ち伏せていたアメリカの潜水艦タニーが大鷹・冲鷹に対し計10本の魚雷を発射するが、すべて早爆だったため両艦の被害は僅少だった。タニーは日本空母3隻と報告しており、重巡洋艦の鳥海を空母と間違えている。まもなく艦隊は無事にトラック泊地に到着した。同時期、定期人事異動で三川中将は第八艦隊司令長官から退任、鮫島具重中将が新長官として着任することになった。 5月17日、鳥海は前進部隊に編入された。6月30日、連合軍はカートホイール作戦を発動してレンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まった。当時の南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)は、ラバウルに第十一航空艦隊と第八艦隊が司令部を置いており、同港に秋月型駆逐艦5番艦新月ほか秋風・夕張・望月・皐月・夕凪が所在、トラック泊地に鳥海・雪風・涼風・江風・谷風・浜風、ブカに天霧・初雪、ブインに長月・水無月・三日月が分散配備という状況である。同日附で各艦(鳥海、谷風、雪風、涼風、江風《機関故障でトラック帰投》)はラバウル進出を下令され、同地到着以後は南東方面艦隊の指揮下に入るよう指示された。 7月5日深夜、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将(旗艦新月)が指揮する支援隊(新月、涼風、谷風)・第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)・第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)はコロンバンガラ島輸送作戦中に米軍巡洋艦3隻・駆逐艦4隻と交戦、新月・長月と米軽巡ヘレナが沈没し、新月沈没時に秋山司令官以下第三水雷戦隊司令部は全滅した(クラ湾夜戦)。そこで新司令官着任までの数日間、鳥海艦長の有賀幸作大佐(後日、戦艦大和沈没時艦長)が増援部隊の臨時指揮官となった。 7月7日、南東方面部隊は兵力増強を要請し、連合艦隊は第二水雷戦隊に所属する2隻(軽巡神通、駆逐艦清波)を南東方面部隊に編入する(11日ラバウル着)。つづいて第七戦隊の重巡2隻(鈴谷、熊野)に出撃準備を命じた。7月9日17時、外南洋部隊指揮官鮫島中将は主隊(重巡鳥海、軽巡川内)、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)を率いてブインを出撃、コロンバンガラ島へ進出するが米艦隊は出現せず、陸兵1200名と軍需物資の輸送作戦は成功した。7月10日、秋山少将の後任として伊集院松治大佐(前職金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官として着任し、7月11日には第七戦隊(熊野、鈴谷)もラバウルへ到着する。新司令部の準備がととのうまでの間、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が増援部隊指揮官となった。7月12日、伊崎少将率いる増援部隊(旗艦神通)は再びコロンバンガラ島への輸送任務に従事するが、アメリカ軍巡洋艦3・駆逐艦10隻と遭遇(コロンバンガラ島沖海戦)。アメリカ側は巡洋艦3隻が大破し駆逐艦1隻が沈没、日本側は神通が沈没して伊崎二水戦司令官以下第二水雷戦隊司令部は全滅した。 日本軍は大きな損害を受けたが、それ以上にアメリカ軍に大打撃を与えたと判断し、再び敵水上艦艇の撃滅と輸送作戦の実施を企図した。7月17日の第七戦隊出撃は、ブイン大規模空襲により初雪沈没、皐月・水無月・望月(18日被害)損傷のため中止となった。7月18日22時、第七戦隊司令官西村祥治少将率いる夜戦部隊の重巡洋艦3隻(熊野《旗艦》、鈴谷、鳥海)、軽巡川内、駆逐艦4隻(雪風、浜風、清波、夕暮)はラバウルを出撃、19日17時20分には輸送隊(三日月、水無月、松風)と合同、21時に分離した。だが西村部隊の行動はPBYカタリナ飛行艇によって捉えられていた。このカタリナは「ブラック・キャット」と呼ばれる夜間哨戒機であり、レーダーで西村部隊を捕捉するとガダルカナル島へ通報する。そのころ輸送隊は揚陸に成功したものの西村部隊は敵艦艇を認めず、クラ湾北方で23時に反転する。月齢は15.5であった。日付変更後の夜間空襲により3隻(熊野、水無月、松風)が損傷した。また夕暮が沈没し、救援にむかった清波も撃沈されたため2隻のほぼ全乗組員が戦死した。鳥海も雷撃されるが被害はなかった。 8月5日、ラバウル停泊中の鳥海は外南洋部隊主隊から支援隊に編入された。10日にラバウルを出発し、トラック泊地へ回航。12日、2隻(熊野、鳥海)は空母雲鷹と駆逐艦2隻(野分、白露)と共に内地へむかった。横須賀着後、21日附で外南洋部隊支援部隊から除かれた。それにともない第八艦隊から第二艦隊・第四戦隊に転出。9月には機銃、電探の増備を行い南方へ進出した。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 1943年(昭和18年)11月上旬、鳥海は『ろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)』に呼応してブーゲンビル島上陸作戦を支援するため、第二艦隊司令長官栗田健男中将が指揮する第二艦隊・重巡洋艦愛宕《旗艦》、高雄、摩耶、鈴谷、最上、筑摩、阿賀野型軽巡洋艦2番艦能代、駆逐艦4隻(玉波、涼波、藤波、早波)からなる艦隊と共にラバウルへ進出する事になった。11月3日トラック泊地を出撃、するとカビエン北方80浬で日章丸が空襲により航行不能となり、2隻(鳥海、涼波)は同船救援のため栗田艦隊から分離した。だが11月5日、第二艦隊は進出先のラバウルでアメリカ軍機動部隊(空母サラトガ、プリンストン基幹)による大規模空襲に遭遇する。愛宕・高雄・摩耶・最上・筑摩・能代・阿賀野・藤波・若月が大小の損害を受け、特に摩耶の被害は大きかった。南東方面艦隊は重巡部隊のトラック帰投を命じ、2隻(鳥海、涼波)は11月7日朝にトラック泊地へ戻った。 1944年(昭和19年)1月20日早朝、給糧艦伊良湖は駆逐艦皐月と共に内地へ向けトラック泊地を出発するが、アメリカの潜水艦(シードラゴン)の雷撃で伊良湖が被雷した。このため鳥海はトラック泊地北方の遭難現場へ急行、駆逐艦涼風・潮と共に伊良湖を救援して21日トラック泊地へ戻った。6月、鳥海はマリアナ沖海戦に参加、10月にはレイテ沖海戦に参加した。
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昭和十八年以降の戦い
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「高雄 (重巡洋艦)」の記事における「昭和十八年以降の戦い」の解説
1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島からの撤退を支援する。その後艦長は猪口敏平大佐にかわり、トラックを拠点に中部太平洋で活動した。同年11月5日、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)が指揮する巡洋艦部隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、最上、筑摩、第二水雷戦隊)としてラバウルに進出。そこで米空母艦載機による攻撃を受ける(ラバウル空襲)。「高雄」は二番砲塔右側付近に爆弾2発が命中。右前部水線部に大破孔を生じた。たまたま一番砲塔の扉が開いており、爆風で炸薬が引火した結果、戦死者23名を出した。被爆による負傷者は22名。他に複数隻(愛宕、摩耶、最上、筑摩、阿賀野)等が損傷し、特に4隻(愛宕、高雄、摩耶、最上)は内地回航を要する被害を受けた。「高雄」は横須賀に戻り修理を行った。 「高雄」の修理は1944年(昭和19年)1月19日に完了。「高雄」は空母「瑞鳳」、「千代田」、駆逐艦「初春」、「若葉」、「玉波」と共にトラックへ向かった。航海中の2月1日、「高雄」と「玉波」は被雷と悪天候のため艦首が切断されて航行不能となった空母「雲鷹」の護衛を命じられた。瑞鳳隊と分離して雲鷹隊と合流し、駆逐艦「皐月」、「潮」、「曙」、「初霜」、「白雲」、「玉波」、「沖波」、「岸波」等と協力してアメリカの潜水艦を撃退して、「雲鷹」の曳航を実施。2月7日、横須賀に帰港した。この作戦で「高雄」はアメリカの潜水艦1隻撃沈を報告している。2月15日、パラオに向けて出航した。その後はパラオ、リンガ泊地、タウタウイ泊地で訓練に従事する。 1944年(昭和19年)6月19日、高雄はマリアナ沖海戦に参加した。前衛部隊として第一戦隊(大和、武藏)等と共に戦い、この時、甲部隊(小沢艦隊)から発進した日本軍攻撃隊を敵編隊と間違え、右舷高角砲で誤射している。この事故で数機が墜落した。24日に日本に戻り、7月20日にリンガ泊地に進出した。 詳細は「レイテ沖海戦」を参照 10月22日、第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶)は栗田健男中将指揮の第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊)に属しレイテ湾に向けてブルネイを出撃した。10月23日、パラワン島沖を航行中の6時34分、アメリカ潜水艦「ダーター」の放った魚雷2本が高雄の右舷魚雷発射管真下と右舷後甲板に命中した。高雄の艦長は艦橋にいたが、航海長と操舵士は旗甲板で天測中のため副長が取舵回避を下令、2本を回避したが総てを避けきれなかったという。高雄は戦死者33名を出し、第三・第四罐室を破壊され、外軸スクリューも失って大破、洋上に停止した。第31駆逐隊の駆逐艦長波と朝霜が高雄の警戒に従事した。高雄では真水タンクも破損し、海水を蒸留して水を作って罐を焚いたため、6-11ノット発揮可能になったのは21時であった。21時44分、高雄は撤退を開始。ダーターの追撃を受けたが、護衛艦や高雄水上機の警戒により襲撃の機会を失い、その後、ダーターは座礁して自沈した。10月25日17時14分、朝霜や水雷艇鵯に護衛され、無事ブルネイに到着した。なお、本海戦で高雄と共に被雷した姉妹艦2隻(愛宕、摩耶)は沈没し、開戦以来各地を奔走してきた第四戦隊も事実上壊滅した。鳥海は第五戦隊(妙高、羽黒)に臨時編入され、25日のサマール島沖海戦で沈没した。4隻健在だった高雄型重巡は3日間で高雄1隻となってしまった。 11月8日、高雄は駆逐艦清霜に護衛されてブルネイを出発し、11月11日シンガポールに到着した。愛宕乗組員の一部は、補充として高雄に配属されていた。まもなく空襲で大破した重巡洋艦妙高もシンガポールに入港し、同艦の緊急修理が行われた。12月中旬、妙高は内地帰投のためシンガポールを出航したが、潜水艦に雷撃されて大破、重巡羽黒に曳航され、シンガポールに戻ってきた。
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昭和十八年以降の戦い
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「秋月 (駆逐艦)」の記事における「昭和十八年以降の戦い」の解説
1943年(昭和18年)1月4日、駆逐艦3隻(秋月、第16駆逐隊《初風、時津風》)は空母瑞鶴(陸軍九九式双軽爆撃機輸送任務)を護衛してトラックに進出する。「瑞鶴」は戦艦陸奥等と共に内地へ帰投、3隻(秋月、初風、時津風)は前進部隊に編入された。ガ島増援任務に投入されていた第二水雷戦隊(長波、陽炎、親潮、涼風)等の疲労と消耗がはなはだしく、健在艦と交代させる必要があったからである。「秋月」には第十戦隊司令官木村進少将が座乗、十戦隊旗艦となる。1月10日、「秋月」に先行してガ島輸送作戦に参加した「初風」はアメリカ軍魚雷艇の襲撃により大破、嵐・江風・時津風に護衛されてショートランドへ帰投することができた。 1月15日、「秋月」(第十戦隊旗艦)は陽炎型駆逐艦8隻(黒潮、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風、嵐、舞風)を指揮し、ガダルカナル島へのドラム缶輸送に従事する。警戒隊(秋月、黒潮、時津風、嵐)、輸送隊(谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)という区分である。重巡部隊(鳥海、羽黒、熊野)水上偵察機の掩護によりアメリカ軍魚雷艇部隊は撃退されたものの、B-17やSBDドーントレスの襲撃により4隻(嵐《大破》、谷風、浦風、浜風)が若干の損傷を受け、勝見基中佐(谷風駆逐艦長)が戦死した。なお1月15日附で秋月型2番艦「照月」は第61駆逐隊から除籍され、秋月型3番艦涼月と4番艦初月が第61駆逐隊に編入された。 1月19日、駆逐艦「時雨」は輸送船妙法丸、帝洋丸、第一眞盛丸を護衛していたが、14時35分に「妙法丸」が米潜水艦ソードフィッシュ の雷撃を受け、20日未明に沈没した。「秋月」と敷設艦初鷹は妙法丸救助のためブーゲンビル島沖合に出動する。夜間、秋月も南緯5度38分 東経156度20分 / 南緯5.633度 東経156.333度 / -5.633; 156.333(ブーゲンビル島北東海域)で米潜水艦の雷撃に遭い、一時航行不能となった。雷撃に合う直前、見張り員が4000mの距離に敵潜水艦を発見しており、射撃用意が完了後艦長が「打ち方始め」の号令を出そうとしていた。しかし砲術参謀が「味方潜水艦かもしれないので照射してはどうか」と遮って具申を行った。艦長は反対したものの、木村司令官が具申を採り上げた、もしくは木村司令官が砲術参謀に任せたことにより照射が行われた。しかし、探照灯管制機の不調で補足できない間に敵潜水艦が潜行、爆雷戦用意を行いながら海面に向かっていた所を被雷したという。この米潜水艦はノーチラスであった。魚雷2本(1本不発)が命中。缶室1つが浸水し、戦死14名、戦傷63名を出した。なお、駆逐艦「秋風」が救難にむったが、「妙法丸」の沈没により次の船団護衛任務にまわされている。 1月20日、「秋月」はショートランドに入港して応急修理を行う。翌日、第十戦隊旗艦は夕雲型3番艦「風雲」に変更された。また木村司令官も「秋月」被雷時に負傷したため、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が21日附で第十戦隊司令官に任命され、1月23日にラバウルへ到着した。将旗を徹した後の「秋月」は1月30日ショートランド泊地発。2月2日、トラック着と同時に工作艦明石に横付けして修理を受けた。2月3日、第61駆逐隊司令も則満大佐から大江覧治大佐(前職第19駆逐隊司令)に交代した。 3月11日、トラックを出港し東京丸をサイパンまで護衛した。3月13日に到着。翌14日、修理のため佐世保に向けて出港したが、サイパンの北西40浬で艦橋下キールが切断、勝泳丸に曳航されサイパンに戻り艦橋を撤去した。艦橋は松安丸に移載。さらに強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し、その状態で6月24日、神光丸に曳航されサイパンを出港する。駆逐艦2隻(卯月、漣)が曳航される「秋月」を護衛していた。航海中の6月30日、第61駆逐隊から除籍され、第二予備艦に指定される。7月5日に長崎へ到着した。7月27日、古賀彌(秋月)駆逐艦長は妙高型1番艦「妙高」副長へ転任。本艦は駆逐艦長不在となった。
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