八十島
八十島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
1938年から佐世保に係留され佐世保海兵団の居住用ハルクとして使用、同年7月11日に「見島」と仮称した。 1944年(昭和19年)2月3日、「平海」は練習巡洋艦「香椎」に曳航されて佐世保を出発。2月4日、2隻は呉に到着した。呉工廠で改造工事と整備を行う。第一号型輸送艦や通常の海防艦と比較して船体が大きくデリックを装備していたことから、航空基地の移動や大発動艇を搭載しての輸送任務に従事することになった。 同年6月1日、「平海」は海防艦「八十島(やそしま)」と改名。「寧海」は「五百島」と改名。2隻(五百島、八十島)は日本海軍に編入され、海防艦に類別された。6月20日、横須賀防備戦隊に編入される。7月2日より小笠原諸島方面、7月22日より硫黄島方面への航空基地の移動用、輸送任務、船団護衛任務に従事した。 9月25日、「八十島」は海防艦から除籍。それに伴い「軍艦 八十島」となった。本籍は呉鎮守府。同日付で日本海軍は第一輸送戦隊を編成。「八十島」は第一輸送戦隊の旗艦に指定される。10月15日から11月15日まで佐世保工廠で輸送戦隊旗艦への改造工事を行った。改造完了後、フィリピン方面へ進出する。 11月14日、二等輸送艦3隻(113号、142号、161号)は佐世保を出港、台湾高雄港に進出する。11月22日、二等輸送艦3隻は高雄港を出撃、「八十島」も随伴した。11月24日午後、4隻(八十島、113号、142号、161号)は陸軍戦車部隊輸送の途上、サマール沖海戦と日本帰投中の米潜水艦雷撃により大破、ルソン島サンタクルスに停泊中の重巡洋艦「熊野」に合同する。「八十島」は熊野負傷者を収容し、11月25日早朝サンタクルーズ湾を出発、マニラに向かった。だが、出航直後に同湾でアメリカ第38.3任務群の大型空母タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV-14) 、軽空母ラングレー (USS Langley, CVL-27) などから飛来したTBFアヴェンジャーに襲撃される。米軍攻撃隊は「熊野」上空を通過し、八十島船団を攻撃。「八十島」は魚雷1本を船尾に受け沈没した。沈没地点記録.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯15度26分 東経119度20分 / 北緯15.433度 東経119.333度 / 15.433; 119.333。また輸送艦3隻(113号、142号、161号)も共に撃沈される。その様子は「熊野」艦上からも目撃された。同日午後、「熊野」も同湾で空襲を受けて沈没した。第1輸送戦隊旗艦は松型駆逐艦2番艦「竹」が継承した。 すくなくとも八十島生存者101名、熊野生存者490名が現地の海軍陸戦隊に編入され、フィリピン地上戦で多数が戦死した。 1945年(昭和20年)1月10日、「八十島」は二等巡洋艦、帝国軍艦籍籍のそれぞれから除籍された。
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