特別攻撃隊の出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
詳細は「特別攻撃隊」を参照 詳細は「神風特別攻撃隊」を参照 将兵が決死的な攻撃を行う特攻については、陸海軍ともに以前から検討が進められており、海軍においては黒島亀人軍令部第二部長が、1943年8月に「特攻艇」の提案を行い、同時期に甲標的搭乗員の黒木博司大尉らから、甲標的や魚雷で自爆攻撃を行ういわゆる「人間魚雷」の提案があった。当初は特攻開始には消極的であった大本営ではあったが、1944年2月17日のトラック島空襲で大損害を被るなど、戦局の悪化に歯止めがかからなくなったことを重くみて、1944年4月には「特攻艇」は「震洋」「人間魚雷」は「回天」として開発と採用が決定した。航空機による特攻についても、侍従武官城英一郎大佐や、341空司令岡村基春大佐から軍令部や連合艦隊に対して上申あったが、当時の航空本部総務部長大西瀧治郎中将が「時期尚早」として却下している。一方で、1944年5月には航空偵察員大田正一海軍特務少尉が提案した有人ロケット兵器(のちの「桜花」)の研究が開始されていた。 陸軍の航空特攻の検討は海軍よりも早く、1944年3月には艦船体当たりを主とした航空特攻戦法の検討が開始され、春には機材、研究にも着手した。特攻兵器の研究は第3陸軍航空技術研究所所長正木博少将が進めていた。しかし、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、1944年3月28日に内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長の東條は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、特攻に積極的であった後宮淳大将を後任に据えた。正木は、1944年7月11日、「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」として対艦船特攻の6つの方法を提案し、その提案に基づいて、7月中旬からの特攻機の改修作業が秘かに進められた。 その後、サイパン失陥で陸海軍共に特攻開始の準備が本格化し、陸軍では、7月中には鉾田教導飛行師団と浜松教導飛行師団に特攻隊を編成する内示が出て、10月4日には特攻部隊編成の準備命令が出た。しかし鉾田教導飛行師団司令官の今西六郎少将は、大本営からの「大元帥である天皇が特攻隊編成の正式な奉勅命令を出すことは、天皇が「生きて帰ってくるな」という命令をするも同然であって、建前として志願者を募るよう」とする命令に、「人の心は一日の中でのたびたび変わるもので、殉国の精神に懸念のない多数の青年を長時苦悩させるものではない」と特攻隊の編制に否定的であったが、10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し捷号一号作戦が発令されると、20日には正式な編成の指示があり、今西は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、航空本部の「絶対に志願者」との指示を破って陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的であった岩本益臣大尉を中隊長とした佐々木友次伍長ら精鋭を“指名”し、陸軍初の航空特攻隊「万朶隊」が編制された。志願を募らなかったのは、鉾田教導飛行師団首脳らの「志願者を募れば、全員志願するであろう」という考えに基づくものであった。浜松教導飛行師団でも「富嶽隊」が編成されて両隊はフィリピンに送られた。 海軍においても、1944年(昭和19年)10月5日にダバオ誤報事件の失敗で更迭された寺岡謹平中将の後任として、第一航空艦隊司令長官に内定した大西は、これまでの特攻への慎重な姿勢から一転して、及川古志郎軍令部総長に対して航空特攻を開始する決意を語っている。及川は「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認し、それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と要請している。大西はフィリピンに向けて出発する途中で台湾沖航空戦の様子を見学したが、日本軍の苦戦ぶりを見て愕然とし、台湾入りしていた連合艦隊司令長官豊田副武大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と特攻への決意を語っている。フィリピンに到着した大西は、1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部に第1航空艦隊の幕僚らを集めると、「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当りをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した。大西の決意に一同は特攻隊編成を受け入れ、「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口力平主席参謀の意向を受け、第二〇一海軍航空隊副長玉井浅一中佐は戦闘第301飛行隊長の関行男大尉を指名した。猪口は、郷里の古剣術の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風隊というのはどうだろう」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して「神風特別攻撃隊」と命名された。 以上のような経緯で特攻は開始され、フィリピンの戦いで海軍航空隊は特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍航空隊は210機を投入し、251名の搭乗員を失ったが、それに対して連合軍は、特攻によりフィリピンだけで、22隻の艦艇が沈められ、110隻が撃破された。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めており、特攻は相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった。また、フィリピン戦においてアメリカ海軍の将兵だけで4,336名が戦死し、830名が再起不能の重傷を負ったが、この中の大半が特攻による損失であった。特攻に痛撃を浴びせられたアメリカ軍は、アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥が、フィリピン戦で特攻により被った損害を見て「特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と評価したように特攻が大きな脅威になると危惧したり、特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督が1944年11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれ、ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求したりと、この後も特攻は終戦まで連合軍をくるしめることとなった。
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