航空偵察員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:44 UTC 版)
1932年(昭和7年)4月、第20期偵察練習生に採用され、半年課程後に艦上攻撃機の「偵察員」になる。海軍では、操縦員以外で航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼んでおり、兵曹、水兵の中から募集した「操縦練習生」(略して操練)、「偵察練習生」(略して偵練)の教育を行っていた。 偵練同期の馬場政春によると、大田の成績は中位だったが、頭の切れるアイデアマンで、敵飛行機の進路前方にロケットで網を打ちあげて落す奇策を語っていたという。教員の川合誠によると、大田は四年で満期をとって満州へ行き、馬賊相手の商売をやりたいと話していたという。 日華事変には中型陸上攻撃機の偵察員として参加。同僚の山田猛夫によると、大田は敵首都の重慶に落下傘部隊を降下させるべしとの意見書を分隊長、飛行長に上申して採用されなかったという(上陸部隊と連携がない玉砕)。 1940年(昭和15年)5月1日航空兵曹長に進級、2日付けで予備役となるが、即日招集により木更津航空隊の偵察教官を務める。1943年(昭和18年)3月第三艦隊司令部附。その後、第十一航空艦隊司令部附。一式陸上輸送機(一式陸上攻撃機派生型)の機長(偵察員)としてラバウル方面に出動、連絡や輸送業務に従事。1943年8月特務少尉に進級。
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