特別攻撃隊の拠点化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:43 UTC 版)
「知覧特攻平和会館」の記事における「特別攻撃隊の拠点化」の解説
陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年(昭和20年)2月、太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。こうして知覧特攻基地(ちらんとっこうきち)が誕生。振武隊(しんぶたい)と名付けられた特攻隊が出撃することになった。 詳細は「第6航空軍 (日本軍)#所属部隊」および「振武隊#概要」を参照 1945年3月20日付で、参謀本部から『「と」号部隊』と呼ばれる陸軍特攻隊の編成が発令される。同時に陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は海軍側の特攻隊として既に動き出していた神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦が始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦と連携した菊水一号作戦においては、一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担い、アメリカ海軍に多大な損害を与えた。 詳細は「特別攻撃隊#全軍特攻」および「坊ノ岬沖海戦#日本の艦隊出撃」を参照 「菊水作戦#菊水一号作戦」および「振武隊#第20振武隊(知覧飛行場より出撃)」も参照 知覧を含む九州の各航空基地から出撃した特攻機から大きな損害を被ったアメリカ海軍は「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである」「投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 として戦略爆撃機B-29による九州の特攻基地爆撃を要請した。海軍の要請に基づき、九州の飛行場に対する集中的な戦術爆撃が行われることとなり、なかでも、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、 九州の航空基地の攻撃に転用されている。 日本軍はB-29の来襲をいち早く察知すると、特攻機を退避させるか巧みに隠した。そして爆撃で滑走路に開いた穴はその日のうちに埋め戻しており効果は限定的だった。B-29は飛行場攻撃に併せて、九州各地の都市にも小規模な無差別爆撃を行った。3月に開始された東京などの大都市圏への無差別焼夷弾爆撃に比べると被害は少なかったが、1945(昭和20)年4月8日の鹿児島市に対する空襲では、一般市民にも死者587人、負傷者424人の人的被害が出た。 詳細は「B-29 (航空機)#戦術爆撃任務に投入」および「鹿児島大空襲#空襲の略表」を参照 「日本本土空襲#戦略爆撃の実施後」および「菊水作戦#菊水三号作戦」も参照 陸軍第6航空軍は5月28日の菊水八号作戦を最後に連合艦隊隷属を外れたが、その後も沖縄戦線への特攻は行われた。大規模なものは6月22日の菊水十号作戦まで続き、アメリカ軍艦隊に多大な損害を与えた。アメリカ軍の公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが、その大部分は特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。6月25日、沖縄での組織的戦闘が終了(沖縄敗戦)するという大本営発表で知覧もその役目を終えるかに見えた。しかし、米軍の日本本土上陸はもはや間近に迫っており、知覧飛行場は帝国陸軍の本土防衛の最前線となっていた。出撃は8月15日の終戦まで、散発的に続いていった。 詳細は「沖縄戦#その後の戦闘」および「菊水作戦#その後」を参照 陸軍関連の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる439人が知覧から出撃したと会館では記録している。が、資料によっては変動も見られる。 「特別攻撃隊#構成人数・比率と戦死者数」および「俺は、君のためにこそ死ににいく#あらすじ」も参照 知覧から出撃した航空機は九七戦が最も多く、ついで一式戦という順になっている。 詳細は「一式戦闘機#本土航空戦」および「九七式戦闘機#活躍」を参照
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