日本の艦隊出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 20:51 UTC 版)
4月5日、呉防備戦隊の対潜掃蕩部隊が再び豊後水道方面に出撃した。日本陸海軍は、4月6 - 7日にかけて300機近くの特攻機を投入した。飛行技術の練度不足や興奮などの諸条件により小型艦艇を目標にした特攻機が多く、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、揚陸艇1隻、貨物船2隻撃沈・駆逐艦8隻がなんらかの損傷を受けた。沖縄の第三十二軍は撃沈(戦艦2・艦種不詳2・大型3・小型2)・撃破(戦艦1・炎上駆逐艦1・輸送船6・小型2・艦種不詳9)を報告した。東京のラジオは、アメリカ軍戦艦2隻・巡洋艦3隻・小型艦船57隻撃沈、アメリカ軍空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた。第五航空艦隊司令官は特攻出撃が充分な戦果をあげたと判断している。 4月6日、連合艦隊長官は第二艦隊に対し 「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正に此の一撃に在り、茲(ここ)に特に海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは帝国海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を後昆(こうこん)に伝へんとするに外ならず、各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々(いよいよ)殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅(せんめつ)し以て皇国無窮の礎を確立すべし」 — 豊田副武連合艦隊長官 と電報訓示する。 九州の鹿屋(第五航空艦隊)に出張して宇垣とともに特攻出撃を見守っていた草鹿と三上は、東京から第二艦隊出撃計画が豊田の決裁を受けたという連絡を受けた。「きまってから(長官の決裁をうけてから)参謀長の意見はどうですかもないもんだ」と憤慨しつつ、草鹿は水上機に乗って大和を訪れた。大和内部にある長官公室での打ち合せでは、伊藤長官は作戦に納得しなかった。だが、既に陸軍の総攻撃が計画されていると三上が告げると、伊藤は作戦を了承した。草鹿の「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」という言葉も要因だったとされる。一方で、草鹿参謀長の回想録には特に言及がない。伊藤は「途中で沖縄到達の見込みがなくなった場合はどうするか」と質問し、草鹿は「貴方に一存する」と答えると、伊藤は喜色満面となって「わかった。安心してくれ、気もせいせいした」と返答したという。海軍兵学校時代の草鹿は伊藤の後輩であり、草鹿は「何かにつけて下級生をかばう良き先輩であり、訣別の辞を伝えにいかなくてはならぬ破目になったことは皮肉な巡り合わせ」と述べている[信頼性要検証]。なお高田利種連合艦隊参謀副長は、草鹿が大和特攻作戦をむしろ熱心に主導したと断言しているが、「何時出撃するかを知らされなかった」可能性はあるとしている。 その後、大和にて各戦隊司令官、艦長が集合した。そこで草鹿による作戦説明と、伊藤による訓示が行われた。草鹿が「沖縄に乗り上げて陸戦隊になって欲しい」と告げると、第二艦隊将校から「陸戦武器がないじゃないか」と疑問がぶつけられた。古村によれば、草鹿の「一億総特攻の先駆け」はこの将校会議で出た発言である。結局、伊藤が反論や不満を抑える形となり、艦長達は命令に従った。伊藤は1人上機嫌だったという証言も残されている。草鹿が宇垣に語ったとこによれば「第二艦隊の空気は最初沈滞気味なりしが伊藤二艦隊長官の訓示にて其の気になりたりと云ふ」。15時20分、大和以下、第二艦隊は徳山沖を出撃した。16時10分、伊藤は麾下の艦艇に対し出撃に際しての訓示を発する。 神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ — 伊藤整一第二艦隊司令長官 このように悲壮なる決意をもって第二艦隊は出撃したのである。だが、沖縄の第三十二軍は作戦参謀八原博通大佐を中心に持久作戦を主張、大本営の沖縄飛行場攻撃命令・8日総攻撃要請にも応じなかった。海上特攻を思いとどまるよう牛島軍司令官は発信、『大本営機密戦争日誌』によれば 「皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ」 とである。 夕刻、大和甲板では総員が集合し、訓示の後「各自の故郷に向かって挨拶せよ」との命令が出た。矢矧艦長は「生きて帰ることをためらってはならない」と乗組員に説明していた。夜間、第二水雷戦隊は大和を目標とした雷撃訓練を行う。第二水雷戦隊は新編成以降燃料不足のため、4月6日まで一度も総合訓練を行ったことがなかった。連合艦隊の命令により、佐伯航空隊の零式水上偵察機14機と、呉防備戦隊の掃海部隊や、海防艦志賀および第194号海防艦が第二艦隊の前方を進んだ。17時前に哨戒機が敵潜水艦を発見し、特別掃蕩隊や志賀が攻撃をおこなって撃沈確実を報じた。豊後水道で対潜掃討隊と分離した後、艦隊は一路沖縄本島への進路を取る。20時20分頃、都井岬南方30海里の地点に配備されていたアメリカ軍のスレッドフィン(USS Threadfin, SS-410)とハックルバック(USS Hackleback, SS-295)の2隻の潜水艦は豊後水道を南へ向かう日本艦隊を発見し、アメリカ艦隊へ日本艦隊の出撃を通報した。両艦には魚雷攻撃禁止命令が出ていた。これは中途半端な損害を与えて内地に戻られるのを避けたためである。ただし、ハックルバックは駆逐艦を狙って魚雷を装填したが、接近されたために発射のチャンスを失った。第二艦隊でも、アメリカ潜水艦の電文を探知していた。一方、大和の艦内では乗組員に汁粉が出た。夕食は赤飯と鶏肉の唐揚げだったという。 4月7日午前6時、日本艦隊は大隅半島を通過し外洋へ出ると、沖縄本島へ向かった。この時、大和は唯一搭載していた零式水上偵察機を発進させている。陸上航空部隊からは次々と特攻機突入の報告が入り、「正規空母3隻、特設空母1隻、戦艦1隻撃破」という誤戦果や、7日午前4時には「敵機動部隊大打撃。空母を含む数隻撃沈確実、敵艦隊大混乱」との誤報を受取っている。日本艦隊は大和を中心とし、その周りを1,500メートルずつ離れて矢矧と8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んだ。 護衛する駆逐艦のうち、朝霜は午前7時に機関故障を起こして速力が12ノットとなり、艦隊から落伍した。大和の零式水上偵察機は、異状排気を起こして速力を低下させる朝霜を目撃している。その後、大和所属機は矢矧所属機に哨戒をひきついで鹿児島県の指宿基地に向かった。8時15分、矢矧からも水上偵察機1機が射出されており、午前9時ごろ指宿基地に到着した。8時、昭和天皇が伊勢神宮に高松宮宣仁親王を御名代として差遣したとの連絡が入る。 午前11時、朝霜が第二艦隊の視界外に脱落した。同時刻、大和の電探がアメリカ軍編隊を探知する。それから間もなく艦隊は小型艦艇3隻からなる大島輸送隊(第百四十六号輸送艦、駆潜艇四十九号、駆潜艇十七号)とすれ違った。大島輸送隊は奄美大島への強行輸送を任務とした部隊で第一号型輸送艦と第百一号型輸送艦を基幹とする。今回は輸送艦3隻(第十七号、第百四十五号、第百四十六号)・海防艦1隻(百八十六号)・駆潜艇2隻(十七号、四十九号)で編成され、第十七号輸送艦艦長を指揮官として3月31日に佐世保から出撃、4月2日に奄美大島に到着、輸送物資を揚陸した。同島でのアメリカ軍の航空攻撃と座礁事故により輸送艦2隻と海防艦1隻を失い、帰投中であった。第二水雷戦隊は12時19分視認距離で遭遇、大和は12時22分、45km先に発見としている。1月まで駆逐艦浜風砲術長兼第一分隊長だった輸送隊指揮官、丹羽正之(正行)大尉は旗艦から大和に対して無線もしくは手旗・発光信号で答礼すると「有難ウ、ワレ期待ニ応エントス」という返礼があった。同時刻、佐世保へ向かう海防艦屋代も第二艦隊とすれ違い、第二艦隊の無線電報を受信している。記録によれば屋代は佐世保に在泊となっているが、大和を目撃したという乗組員の証言もある。
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