戦略爆撃の実施後
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1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして中国の成都の基地から行われた(八幡空襲)。成都からの爆撃はB-29航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料輸送の困難のため出撃回数も限られていた。このためにアメリカはマリアナ諸島を攻略、大規模な航空基地を建設すると日本本土の大半が攻撃可能となった。空母搭載機による日本本土への攻撃も、沖縄に対する1944年10月10日の十・十空襲、1945年2月の関東地区空襲(ジャンボリー作戦)などが行われた。 当初1944年(昭和19年)11月、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は1944年11月23日から出撃命令を出し、初空襲は1944年11月24日となったが、マリアナ基地の未完と悪天候で戦果が上がらなかった。東京、名古屋に対する爆撃で主目標を中島飛行機、三菱重工、第2目標を市街地とする爆撃の命令を行いつつも、11月29日には、東京工業地域を第一目標とした最初のレーダー照準による夜間爆撃が行われ、1945年1月3日には名古屋のドッグ地帯と市街地を第一目標とした昼間爆撃を実施している。これらの爆撃でハンセルは焼夷弾による無差別爆撃をテストしており、大規模な無差別爆撃の準備を進めていた。 アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた。また、ルメイは、中国で作戦中の1944年12月、漢口大空襲でB-29と焼夷弾による大規模な都市空襲を実行して市街地に大損害を与えた経験があった。 ルメイはすでにハンセルによって準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8,500メートルから9,500メートルの昼間爆撃を行っていたが、高度1,500メートルから3,000メートルに変更、理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手を外し爆弾を200キログラム増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更、これに乗員は恐怖したが、B29の損害は軽微だった。3月10日の東京大空襲から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。 1945年4月7日以降は硫黄島配備のアメリカ陸軍のP-51やP-47、イギリス海軍空母艦載機のスピットファイアなどの戦闘機も空襲に参加、B-29爆撃隊の護衛にあたり、地上施設の攻撃も行った。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地として重要だった。また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害(飢餓作戦)。 公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉がパラシュート降下し捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。 なお、空襲以外の日本本土への攻撃として、英米海軍艦船などによる釜石艦砲射撃や室蘭艦砲射撃のような艦砲射撃も行われており、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊された。1945年(昭和20年)5月31日には台北大空襲が行われた。
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