米軍管轄下の巣鴨拘置所とは? わかりやすく解説

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米軍管轄下の巣鴨拘置所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:39 UTC 版)

巣鴨拘置所」の記事における「米軍管轄下の巣鴨拘置所」の解説

第二次世界大戦日本敗れ連合国軍占領下置かれた。東京拘置所連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の接収により「スガモプリズン」と改称され戦争犯罪容疑者が多数収容された。処刑場入口13号鉄扉通ってBC級戦犯52名が処刑された。 後述するように、スガモプリズンその後取り壊されて、跡地サンシャインシティ東池袋中央公園になった。この再開発手掛けた新都市開発センター(現:サンシャインシティ)により、この13号扉は法務省寄付され矯正研修所などを経て2018年時点でも保管されている。 1945年11月27日付けの「星条旗紙」には収容者待遇記述されている。この時点では収容者有罪として認められていないため、食事順番掃除免除などについては逮捕前軍の階級社会的地位配慮したものとなっていた。日本人食事和洋食で、おかずの例として朝食搔き卵昼食野菜シチュー夜食ほうれん草コーヒー付き家族からの食糧差し入れ認められていた。日本人以外の収容者にはアメリカ軍兵食提供されていた。占領軍主体であるアメリカ軍情報戦一環として監房に、装置密かに取り付け戦犯たちの会話盗聴していた事が後年明かされている。 1947年昭和22年2月既決囚労働本格化し、A級戦犯60歳上の高齢者病人以外は全て就労命じられた。プリズン周辺の道路整備運動場農園兵舎将校宿舎建設等の重労働命じられ午前と午後1回ずつある5分の休憩昼食時の休憩時にしか休めない私物一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない長い拘禁生活と裁判疲労で、体力落ちた戦犯達には重労働であり、「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。 この重労働2年続き建設命じられ施設完成に至ると、戦犯たちは信頼勝ち取り減刑などの恩恵受けた新聞・雑誌・本などの閲覧上野図書館からの書籍借り出し許可された。ラジオ定期聴取でき、映画も週に1回鑑賞できた。 1948年昭和23年12月23日には、極東国際軍事裁判により死刑判決受けた東條英機ら7名のA級戦犯死刑執行された。 1950年昭和25年)から始まった朝鮮戦争多数米兵出征するため、1950年8月日本人刑務官着任米軍監理下で警備あたった。なお、最も収容者数が多かったのは1950年1月時点で、1862人の戦犯収容されていた。

※この「米軍管轄下の巣鴨拘置所」の解説は、「巣鴨拘置所」の解説の一部です。
「米軍管轄下の巣鴨拘置所」を含む「巣鴨拘置所」の記事については、「巣鴨拘置所」の概要を参照ください。

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