米軍管轄下の巣鴨拘置所
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「巣鴨拘置所」の記事における「米軍管轄下の巣鴨拘置所」の解説
第二次世界大戦で日本は敗れ、連合国軍の占領下に置かれた。東京拘置所は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の接収により「スガモプリズン」と改称され、戦争犯罪容疑者が多数収容された。処刑場入口の13号鉄扉を通って、BC級戦犯52名が処刑された。 後述するように、スガモプリズンはその後取り壊されて、跡地はサンシャインシティと東池袋中央公園になった。この再開発を手掛けた新都市開発センター(現:サンシャインシティ)により、この13号扉は法務省に寄付され、矯正研修所などを経て2018年時点でも保管されている。 1945年11月27日付けの「星条旗紙」には収容者の待遇が記述されている。この時点では収容者は有罪として認められていないため、食事の順番や掃除の免除などについては逮捕前の軍の階級や社会的地位を配慮したものとなっていた。日本人の食事は和洋食で、おかずの例として朝食は搔き卵、昼食が野菜シチュー、夜食がほうれん草、コーヒー付き。家族からの食糧の差し入れも認められていた。日本人以外の収容者にはアメリカ軍の兵食が提供されていた。占領軍の主体であるアメリカ軍は情報戦の一環として、監房に、装置を密かに取り付け、戦犯たちの会話を盗聴していた事が後年明かされている。 1947年(昭和22年)2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯・60歳以上の高齢者・病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で、体力の落ちた戦犯達には重労働であり、「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。 この重労働が2年続き、建設を命じられた施設の完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞・雑誌・本などの閲覧、上野図書館からの書籍借り出しも許可された。ラジオも定期聴取でき、映画も週に1回鑑賞できた。 1948年(昭和23年)12月23日には、極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名のA級戦犯の死刑も執行された。 1950年(昭和25年)から始まった朝鮮戦争で多数の米兵が出征するため、1950年8月、日本人刑務官が着任。米軍の監理下で警備にあたった。なお、最も収容者数が多かったのは1950年1月時点で、1862人の戦犯が収容されていた。
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