日本本土爆撃の本格化
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「サイパンの戦い」の記事における「日本本土爆撃の本格化」の解説
アメリカ軍は6月18日に確保したイズリー飛行場を、まだ島内で激戦が戦われている最中にも関わらず、滑走路に開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、6月22日には戦闘爆撃機「P-47」で編成された第19戦闘機部隊を進出させ、同日の午後には戦闘支援任務で出撃させている。その後に、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行ってB-29の運用が可能な飛行場となり、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した。アメリカのタイム誌も1944年7月17日号の記事で「太平洋の島づたいの反攻作戦での最大血戦は終わり、東京へ1,500マイル以内の航空基地がアメリカ軍の手に入った。一番良い事は、この基地への補給が海路で容易にできることだ」とその意義を報道している。 一方で日本側は、絶対の自信を持っていたサイパンの陥落によってB-29による関東及び中部地区への空襲が開始されると覚悟した。この重要性を痛感した永野修身軍令部総長は「サイパンを失った時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と考え、防衛総司令官であった皇族の東久邇宮稔彦王も「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた。窮地に陥った大本営は、サイパンからの日本本土空襲の開始時期の想定を開始し、参謀本部第2部長有末精三中将が陸軍航空本部調査班に分析を指示、調査班は9月から10月にかけて50機~60機のB-29がサイパンに進出すると想定した。さらに調査班は9月23日に陥落後初めてサイパンの航空偵察に成功し、B-29の機体自体は撮影することができなかったが、イズリー飛行場が整備されていることを確認、また10月にはトラックにB-29が飛来するようになり、B-29のマリアナ進出は確実視された。さらに日本陸軍は、サイパンの偵察と攻撃を任務とする第2独立飛行隊を編成(指揮官:新海希典少佐)し、硫黄島に進出させて訓練を行わせた。第2独立飛行隊のサイパンへの攻撃は1944年11月2日に開始され、陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機がタ弾を装備して出撃したが5機が未帰還、11月6日には3機が出撃し全機帰還、両日ともに爆撃には成功し20機以上のB-29撃破を報告しているが、実際には飛行場外に着弾しB-29の損害はなかった。 アメリカ軍による日本本土空襲の準備は着々と進み、11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が東京上空を偵察飛行した。11月11日に計画している東京の中島飛行機武蔵野工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。これらの偵察写真によって空襲目標リストが作成されたが、まずは航空産業を壊滅させるため、大小の工場1,000以上が目標としてリストアップされた。11月11日のB-29による東京初空襲は天候の問題で24日に延期となり、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。日本軍は陸海軍混成で100機以上の迎撃機を出撃させたが、B-29は9,150mという超高高度で侵入してきたため、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達さず、B-29の損失は体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機と少なく、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃が低調であったため胸をなでおろしている。この日の被害は、死者55名と武蔵野工場施設の軽微な破壊だけであった。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ爆撃を敢行。ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。この爆撃は、今までの爆撃とは異なり、工場などの特定の施設を目標としない東京の工業地帯を目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は少なかった。 日本軍第2独立飛行隊は、東京が初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機がイズリー飛行場(アスリートよりアメリカ軍が改名)を爆撃し完全撃破4機と16機が損傷させ2機とも生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を5機撃破し、また迎撃してきたP-47の1機を撃墜したが全機未帰還となった。新海少佐の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を4機を撃破、23機を損傷させている。最後の攻撃となったのは1944年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった。 その後もサイパンから日本本土への空襲は続いたが、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将がアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンである高高度昼間精密爆撃に拘り、損害に見合う戦果が挙げられていなかったため、アーノルドはハンセルを更迭し、信頼していたカーチス・ルメイ准将を後任とした。アーノルドはルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤し、アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃にならった高高度昼間精密爆撃に固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることも大きかった。そして高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと見積もった。 使用する爆弾は、1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)で日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模な演習まで行って開発したM69焼夷弾とした。M69焼夷弾のナパーム(ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋は容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された。しかし低空では敵迎撃機、対空砲の危険性があるので夜間爆撃とし、爆弾搭載も今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとして、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した。この戦法であれば、一定の目標を精密爆撃するのではなく、地域全体に焼夷弾を投下することになるので、未熟な搭乗員による爆撃でも十分な効果が期待できた。 ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の東京大空襲となり、一晩で約10万人が死亡した。この絶大な効果で自信を持ったルメイは、沖縄戦支援での戦術爆撃任務を終えたのち、5月14日の名古屋空襲を皮切りに、B-29を大規模焼夷弾攻撃任務に復帰させた。補給も強化されて、6月までには常に400機のB-29が全力出撃できる十分な量のM69焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた。5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機が名古屋市街地と三菱発動機工場を中低空で焼夷弾攻撃したが、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた。その後、全国の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。日本軍には跳梁するB-29に対抗する手段はなく、香淳皇后が、疎開していた皇太子(継宮明仁親王)に「こちらは毎日、B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつてゐます B29は残念ながらりつぱです」という手紙を送ったほどであった。 日本本土空襲のためにマリアナ攻略を進言したアメリカ陸軍航空軍司令官アーノルドは、戦後に陸軍長官への報告書でマリアナの攻略とその後の日本本土空襲の意義を以下のようにまとめている。 日本の崩壊は、太平洋戦争の攻勢段階における戦略的コンセプト全体が正しかったことを立証しました。全般的に見ても単純に見ても、この戦略は、陸上及び航空母艦を基地とする航空兵力の両方を、日本そのものに対して破壊的航空攻撃をフルに加えることのできる地点まで前進させることでした。この戦略には、そのような攻撃が上陸作戦なしに日本に敗北をもたらす可能性があり、さらに、上陸作戦への準備と協力に重大な役割を果たすだろうという確実性がありました。
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