工場施設
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東京ドーム5個分の250000平方mの敷地には、東洋紡績富田工場と松原地区宮町自治会を構成する広大な社宅地があった。東洋紡績富田工場の敷地には以下の施設があった。
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工場・施設
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「三菱重工業長崎兵器製作所」の記事における「工場・施設」の解説
1917年(大正8年)、長崎市茂里町に魚雷の生産・組立工場として茂里町工場(浦上工場とも)と、組立が完了した魚雷の発射・調整試験場として西彼杵郡長与村(現:長与町)に堂崎工場が開設された。その後、海軍からの度重なる生産増強要請に応える形で、1942年(昭和17年)、長崎市大橋町(現:文教町)に大橋工場が開設されている。 茂里町工場(長崎市茂里町40番地)地図1917年(大正8年)竣工。敷地面積約4万2,900平方メートル、建築面積約2万6,400平方メートルで、主に潜水艦向けの九五式魚雷を生産。 堂崎工場(西彼杵郡長与村岡郷字加瀬川)地図1917年10月竣工。大村湾沿岸部の長与村と伊木力村の村境附近の入江に設けられた魚雷発射試験場。 大橋工場(長崎市大橋町200番地)地図海軍の度重なる魚雷増産要求に応じるため1939年(昭和14年)着工、突貫工事の末1942年(昭和17年)竣工。施工請負は大林組で敷地面積約19万8,000平方メートルの広大な敷地に、工場や実験場、福利厚生施設など建築面積約7万5,900平方メートル、20棟余りの建屋が建てられた。主に航空機搭載用の九一式魚雷や防雷具等を生産。 大橋・茂里町の両工場は原爆により甚大な被害を受けたが、前述の通り残存従業員・工員らによって順次復旧された。長崎精機の長崎造船所との合併後、大橋・茂里町の両工場は閉鎖され、人員は長崎造船所に引き継がれた。その後、茂里町工場跡地には長崎市中部下水処理場が、大橋工場跡地には長崎大学の学芸学部が設置され、後者は現在同大学の文教キャンパスとなっている。 長崎造船所との合併時点(1951年7月1日)における長崎精機の設備土地…173,564平方メートル 建物…25,544平方メートル 機械設備…1,557台
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