宮町自治会(東洋紡績富田工場の社宅地)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:52 UTC 版)
「松原地区 (四日市市)」の記事における「宮町自治会(東洋紡績富田工場の社宅地)」の解説
(呼び名はみやまち。松原の石取祭では宮町祭車。その後西元町祭車に加盟) 宮町自治会が命名された大正時代に東洋紡績宮町の市街地が完成する以前は三重郡富洲原村大字松原小字塩役であった。東洋紡績宮町社宅に住んでいた住民による自治会。かつては東洋紡績保有の宮町自治会が参加する松原石取祭の宮町祭車が存在した。東洋紡績が設置した富田工場の内部には女子社員の学校の高等女学校が存在して東棟の講堂と西棟の学院校舎があった。聖武天皇社の(天皇さんの宮)が町名の由来である。東洋紡株式会社の私有地。東洋紡績富田工場の従業員で構成されていた。設備の拡張と合理化や製品の高級化が進み、最新工場として整備された。大正末期にガス糸を紡出するようになり、昭和7年度に織布工場が建設されて、レース・メリヤスが一貫生産されるようになった。ガチャマン景気で繁栄した昭和20年代の東洋紡績富田工場は、精紡機は105040錘、より糸機は39200錘、織機は1744台を数えた。2交代で働く東洋紡績富田工場従業員は昭和26年度に4581人となり、宮町自治会の人口は15歳以上が男性人口が約700人で女性人口が約3700人であった。国鉄関西線富田駅の引き込み線から蒸気機関車が走り、東洋紡績富田工場南端にある原綿倉庫のプラットホームに到着すると、四日市港で陸揚げされた綿糸原料のエジプト綿・インド綿・米国綿を入れた麻袋を次々を倉庫に運んだ。昭和天皇が戦後復興のため重要だった素材産業を中心に日本各地の基幹産業を中心に視察するために実施した全国行幸の一部として東洋紡績富田工場を視察した。 「東洋紡績富田工場」も参照 東京ドーム5個分の250000平方mの敷地には、東洋紡績富田工場と社宅があった。四日市市富州原町の工場跡地と四日市市松原町の社宅跡地は大型ショッピングセンターのイオンモール四日市北や住宅地などとして不動産売却された。 広大な紡績工場用地と社宅用地と関連施設によって宮町自治会が構成されていた。 社宅は富田工場の縮小で東洋紡績が徐々に不動産売却をした。 宮町自治会の跡地はサニーハイツ自治会・新栄町自治会・東松武町自治会・西元町自治会の一部として編入された。 東洋紡績の四日市市松原町社宅の売却で宮町自治会の人口が急減して、1997年(平成9年)の東洋紡績富田工場の閉鎖で元町社宅及び松原宮町自治会が廃止された。
※この「宮町自治会(東洋紡績富田工場の社宅地)」の解説は、「松原地区 (四日市市)」の解説の一部です。
「宮町自治会(東洋紡績富田工場の社宅地)」を含む「松原地区 (四日市市)」の記事については、「松原地区 (四日市市)」の概要を参照ください。
- 宮町自治会のページへのリンク