西元町自治会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:52 UTC 版)
「松原地区 (四日市市)」の記事における「西元町自治会」の解説
(呼び名はにしもとまち。松原の石取祭の所属では西元町祭車) 西元町は松原西町自治会(富田一色の西側にある事が西町の町名の由来。富田一色の海運橋の西側付近の通り)と松原元町自治会(東洋町に隣接する松原地区で最初の元々の町という意味が町名の由来。東洋紡績富田工場の社宅付近の通り)が合併した自治会である。戦後に東洋紡績の富田工場が富田一色の海運橋付近の西元町を起点に東洋町から国鉄富田駅に行くために、東洋紡績富田工場を通過する道路があったが、1954年(昭和29年)に東洋紡績が増産体制を確立するため、富田工場内の富田に通ずる道路を買収して道路が閉鎖した際には西元町商店街の売り上げが下がる事への保証金を東洋紡績が西元町に支払った。四日市中町銀座通り商店街と並び三重県下有数の賑わいがあり、別名(銀座町商店街)と呼ばれていた。元町通りでは、富洲原四九の市が4・9の付く日の午前中に開催される。西町通り沿いの北側の境界は四日市市立富洲原小学校が立地する甚五兵町自治会に隣接する茶の水川であり、石造りの學校橋が大日本帝国時代の三重郡富洲原町によって昭和時代の初期に建設された。學校橋は富田一色地区の学童の通学路として使用されていた。戦前は精米が盛んだった。
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