日本本土爆撃に投入とは? わかりやすく解説

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日本本土爆撃に投入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:04 UTC 版)

B-29 (航空機)」の記事における「日本本土爆撃に投入」の解説

成都から八幡製鐵所主目的としてB-29による日本初空襲実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部命令であった1944年6月15日B-2975機が出撃したが、7機が故障離陸できず、1機が離陸直後墜落、4機が故障途中で引き返すこととなり、残り63機だけが飛行継続した。この日は早朝アメリカ軍大船団がサイパン島殺到してサイパンの戦い開始されており、それに呼応して中華民国B-29北九州方面来襲する可能性が高いと日本軍警戒していた。やがて夜中1131分に、済州島設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロ東進中」という至急電が西部軍司令部寄せられた。日本軍レーダー性能低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報入り、翌16日0時15分には、長崎県平戸対馬厳原五島福江を結ぶ線に設置されていた超短波警戒機甲敵味方不明編隊探知、これらの情報検証すると、この敵味方不明編隊は400km以上の速度巡航飛行続けていることが判明したが、日本軍機が帰投哨戒中にこの空域をこんな高速飛行するずがない判断した西部軍午前0時24分に空襲警報発令した日本軍飛行第4戦隊二式複座戦闘機屠龍」8機を迎撃出撃させた。飛行53戦隊三式戦闘機「飛燕」4機も出撃可能であったが、まだ錬成十分でない判断され出撃見送られた。やがて1時11分に、高度2,000mから3,000mの高度で北九州上空現れB-29に対して飛行第4戦隊屠龍関門海峡八幡上空攻撃仕掛けたが、日本軍戦闘機夜間目視での空戦探照灯頼みとなり、攻撃機会限られていた。またB-29想定して訓練繰り返してきた飛行第4戦隊であったが、B-29速度想定よりはるかに速く攻撃もたつくとすぐに引き離されてしまった。それでも、のちにB-29撃墜王として名をはせる樫出勇中尉などが撃墜報告し戦果は7機のB-29(確実4機、不確実3機)を報じた。ただし、日本軍側は来襲した敵爆撃機機種特定できておらず、B-24であった報告した搭乗員もいた。 一方アメリカ側記録では、この日の損失日本軍戦果判定と同じ7機であったが、うち6機は事故損失及び損失原因未確認残りの1機は故障により中国基地不時着したのち、来襲した日本軍戦闘機爆撃機により地上撃破されたとしているが、空襲後日本側で調査されB-29墜落機2機の残骸には、屠龍ホ20337mm機関砲弾などの弾痕多数残されており、日本軍屠龍による撃墜認定している。このように当時アメリカ軍日本軍攻撃Enemy Action)による損失認定するにはかなりの確証が必要で、それ以外未知(ないし未確認)の原因lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認損失増加する傾向にあったそのほか従軍記者1名を含む55名の戦死記録されている。これが日本内地への本格空襲始まりであった邀撃した第19飛行団および西部軍敵機B-29断定できず、航空本部や各技研審査部墜落機チェックするために現地調査向かった残骸からマニュアル機内装備品ステンシル発見し新型B-29であると判断した墜落機は2機で折尾若松落ちており、若松のものはバラバラながら各部名残りとどめていたが、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本B-29について推定性能出されていた程度写真もなく、正確な形状不明だったが、残骸中に搭乗員撮影したフィルムがあり、飛行するB-29細部まで写っていたことから、日本初めB-29全貌知った。 この空襲主たる目的であった八幡製鐵所爆撃による被害軽微生産影響はなかった。爆撃隊は日本による灯火管制目視爆撃ができず、レーダー爆撃行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、地上での爆発確認した搭乗員はいたが、誰も目標製鐵所への命中確認できなかった。爆撃同行していたアラン・クラーク大佐は「作戦の結果みじめなのだった八幡地区落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率ごくわずかで、30km離れておちたものもいくつかあった。レーダー手レーダー爆撃になれていないめだった」と評価したが、製鐵所命中しなかった爆弾八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方与えた衝撃実際爆撃の効果以上に大きかった日本側は、支那派遣軍司令官畑俊六大将が、中国からの日本本土爆撃が近いことを散々陸軍中央警告し隷下第5航空軍には、警戒強化する指示をしていたのにも関わらず、その出撃事前に察知できず、支那派遣軍陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。畑は警戒強化指示していた第5航空軍司令官下山琢磨中将激しく叱責している。B-29想定上の性能に、西日本防空体制早急な再構築が必要とされた。軍は受けた衝撃大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の効果的な迎撃で6機のB-29撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられたが、一部新聞では「八幡への攻撃は、日本本土全部渡って不安の大波立たせることになった」と記事書いている。 一方アメリカではB-29による日本本土初空成功知らせは、すばらしニュースとして大々的報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われたノルマンディ上陸作戦匹敵する大きさで、ニュース読み上げられてる間は国会議事停止されたほどであったノルマンディ訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカ航空戦力としてははじめての、最大打撃与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明発表した八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルド第20爆撃集団司令官ウルフに、引き続いて日本本土爆撃加えて満州スマトラ精油施設など積極的な爆撃命じた日本戦争遂行能力への打撃という本来の目的だけでなく、中国への日本軍圧力軽減と、進行中マリアナ諸島攻略作戦から目をそらさせようという意図もあった。しかし、第20爆撃集団最大弱点である中国国内前進基地への補給問題改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地燃料備蓄量はわずか1,900トンとなっており、当面の間作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルド命令実行不可能と考えていたが、アーノルドはそいうウルフ姿勢を「非常に素人くさい」と詰り消極的と断じて更迭ヨーロッパ戦線活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍カーチス・ルメイ少将後任任命したルメイ着任するまでの間、司令官代理サンダース准将は、アーノルド求めるままに、7月7日18機の少数で、長崎佐世保大村八幡7月26日には60機(72出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山昭和製鋼所8月10日60機が一旦セイロン島基地まで進出後にパレンバン製油所同日29機が長崎工業地帯爆撃したが、いずれも大した成果上げことなく終わった日本対す爆撃はいずれ夜間で、初回八幡同様に慣れないレーダー爆撃十分な成果上げられてないと認識していたサンダースは、唯一相応ダメージ(7.5%の減産)を与えることができた鞍山製鐵所への爆撃の例にならい、次の北九州への爆撃高高度昼間精密爆撃行いたい第20空軍司令部要望して承認された。 1944年8月20日三度目八幡爆撃が行われたが、今までの2回と異なり今回B-2961機による白昼堂々来襲となった数度にわたる日本本土へ空襲への戦訓により、日本側も防空体制を相当に強化していたうえ、昼間でもあり初回とは異なり前回同様の二式複座戦闘機屠龍」に加えて三式戦闘機「飛燕」四式戦闘機疾風合計82機(他5機の一〇〇式司令部偵察機)が迎撃し、激し空戦繰り広げられた。前回までと異なり、7,000mもの高空侵入してきたB-29に対して、高度8,000mで待ち構えていた日本軍機が突進したが、そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺体当たり敢行」と無線発進すると、7,500mの高度で編隊長機であったガートルードC突入、両機はバラバラになって落下したが、ガードルードCのエンジン編隊2番機であったカラミティ・スー命中し同機左翼失い錐揉み描いて落下していった。野辺一度に2機のB-29撃墜することとなった。他の迎撃機活躍し飛行第4戦隊森本曹長屠龍が4機を報告してこの日最大戦果挙げるなど、撃墜確実12機、不確実11機の大戦果、前回までは迎撃機妨害にしかならなかったと揶揄された高射砲も9機撃墜報告、また大村海軍航空隊零戦月光も、長崎一円哨戒中に五島列島上空B-29編隊捕捉し3機撃墜確実、2機不確実報じた。これらの戦果合計すると、撃墜確実24機、不確実13機となり、対して損害は3機未帰還、5機が被弾した。 米軍側の損失記録では出撃61機中14損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾よるもの1機、衝突で1機、日本撃墜17報告している。61機の出撃に対して損失率は22.9%となり、第二次世界大戦中B-29出撃のなかでは最悪損失となった爆撃については、多数500ポンド爆弾製鐵所構内投下させることに成功して製鐵所地上施設に相当の損害被り大規模な火災発生して操業停止追い込まれたが、48時間後には復旧した同日夜間にも10機が夜間爆撃行い日本軍機も迎撃したが、戦果損失もなかった。大きな損害被った第20爆撃集団衝撃受けたが、それよりも大きな衝撃は、この作戦損傷したB-29シベリアハバロフスク不時着した機体押収され搭乗員1名が抑留されているというニュースであった。アーノルドはこのニュース聞くと、「敵の捕虜対するものであり、決し連合軍将兵対するものではない」「ゆるすことのできないことだ」とソビエト連邦激しく非難したが、これはソビエト側が日ソ中立条約締結している日本刺激したくないと考えてとった行動で、のちに搭乗員イラン国境からアメリカ返された。しかしB-29返還せず、のちにデッドコピーされてTu-4製造された。 こののちウルフ後任ルメイ着任したアーノルドからは作戦飛行参加禁じられていたが、ルメイ一度は自らで作戦飛行経験しない十分な作戦指揮できない考えており、一度だけの条件作戦空中指揮許可をとった。その機会着任直後1944年9月8日満州鞍山昭和製鋼所への爆撃となり、ルメイその日出撃した98機のB-29指揮をとった。日本軍二式複座戦闘機屠龍」と二式単座戦闘機鍾馗」約40機で迎撃したが、高度が7,500mから8,500m高高度であったことから、高高度性能不足で思うよう攻撃ができず、また日本軍機はB-29速度見誤っており、ほとんどが有効弾を与えることができなかった。やがて製鐵所近づく激し高射砲射撃を受け、ルメイ搭乗機被弾したが、高射砲弾破片で20cmの穴が開き、2名の搭乗員軽傷負っただけで飛行支障はなかった。この日は4機のB-29失われたが、合計206トン爆弾投下され製鐵所かなりの損害を被るなど作戦成功したその後ルメイインド拠点に、九州満州東南アジアへの爆撃継続11月5日、第468重爆航空群のB-2953機はシンガポール爆撃日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃B-29一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468重爆航空指揮官フォールカー大佐機)。

※この「日本本土爆撃に投入」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。
「日本本土爆撃に投入」を含む「B-29 (航空機)」の記事については、「B-29 (航空機)」の概要を参照ください。

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