日本本土爆撃に投入
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「B-29 (航空機)」の記事における「日本本土爆撃に投入」の解説
成都から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到してサイパンの戦いが開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた。やがて夜中の11時31分に、済州島に設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が西部軍司令部に寄せられた。日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、長崎県の平戸と対馬の厳原と五島の福江を結ぶ線に設置されていた超短波警戒機甲も敵味方不明編隊を探知、これらの情報を検証すると、この敵味方不明編隊は400km以上の速度で巡航飛行を続けていることが判明したが、日本軍機が帰投や哨戒中にこの空域をこんな高速で飛行するはずがないと判断した西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令した。 日本軍は飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」8機を迎撃に出撃させた。飛行53戦隊の三式戦闘機「飛燕」4機も出撃可能であったが、まだ錬成が十分でないと判断されて出撃は見送られた。やがて1時11分に、高度2,000mから3,000mの高度で北九州上空に現れたB-29に対して、飛行第4戦隊の屠龍が関門海峡と八幡上空で攻撃を仕掛けたが、日本軍戦闘機の夜間目視での空戦は探照灯頼みとなり、攻撃の機会は限られていた。またB-29を想定して猛訓練を繰り返してきた飛行第4戦隊であったが、B-29の速度が想定よりはるかに速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまった。それでも、のちにB-29撃墜王として名をはせる樫出勇中尉などが撃墜を報告し、戦果は7機のB-29(確実4機、不確実3機)を報じた。ただし、日本軍側は来襲した敵爆撃機の機種を特定できておらず、B-24であったと報告した搭乗員もいた。 一方、アメリカ側の記録では、この日の損失は日本軍の戦果判定と同じ7機であったが、うち6機は事故損失及び損失原因未確認、残りの1機は故障により中国の基地に不時着したのち、来襲した日本軍戦闘機と爆撃機により地上撃破されたとしているが、空襲後に日本側で調査されたB-29の墜落機2機の残骸には、屠龍のホ203の37mm機関砲弾などの弾痕が多数残されており、日本軍は屠龍による撃墜と認定している。このように、当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはかなりの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。そのほか、従軍記者1名を含む55名の戦死も記録されている。これが日本内地への本格空襲の始まりであった。邀撃した第19飛行団および西部軍は敵機をB-29と断定できず、航空本部や各技研、審査部が墜落機をチェックするために現地調査に向かった。残骸からマニュアルと機内装備品のステンシルを発見し、新型機B-29であると判断した。墜落機は2機で折尾と若松に落ちており、若松のものはバラバラながら各部の名残りをとどめていたが、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本はB-29について推定性能が出されていた程度で写真もなく、正確な形状は不明だったが、残骸の中に敵搭乗員の撮影したフィルムがあり、飛行するB-29の細部まで写っていたことから、日本は初めてB-29の全貌を知った。 この空襲の主たる目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。爆撃隊は日本による灯火管制で目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、地上での爆発を確認した搭乗員はいたが、誰も目標の製鐵所への命中は確認できなかった。爆撃に同行していたアラン・クラーク大佐は「作戦の結果はみじめなものだった。八幡地区に落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率はごくわずかで、30kmも離れておちたものもいくつかあった。レーダー手がレーダー爆撃になれていないためだった」と評価したが、製鐵所に命中しなかった爆弾が八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側は、支那派遣軍司令官畑俊六大将が、中国からの日本本土爆撃が近いことを散々陸軍中央に警告し、隷下の第5航空軍には、警戒を強化する指示をしていたのにも関わらず、その出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。畑は警戒強化を指示していた第5航空軍司令官下山琢磨中将を激しく叱責している。B-29の想定以上の性能に、西日本の防空体制の早急な再構築が必要とされた。軍は受けた衝撃は大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の効果的な迎撃で6機のB-29を撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられたが、一部の新聞では「八幡への攻撃は、日本本土全部に渡って不安の大波を立たせることになった」と記事に書いている。 一方、アメリカではB-29による日本本土初空襲成功の知らせは、すばらしいニュースとして大々的に報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われたノルマンディ上陸作戦に匹敵する大きさで、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。ノルマンディを訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカは航空戦力としてははじめての、最大の打撃を与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明を発表した。 八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルドは第20爆撃集団司令官のウルフに、引き続いての日本本土爆撃に加えて、満州やスマトラの精油施設などの積極的な爆撃を命じた。日本の戦争遂行能力への打撃という本来の目的だけでなく、中国への日本軍の圧力の軽減と、進行中のマリアナ諸島攻略作戦から目をそらさせようという意図もあった。しかし、第20爆撃集団の最大の弱点である中国国内の前進基地への補給問題は改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地の燃料備蓄量はわずか1,900トンとなっており、当面の間は作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルドの命令は実行不可能と考えていたが、アーノルドはそいうウルフの姿勢を「非常に素人くさい」と詰り消極的と断じて更迭、ヨーロッパ戦線で活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍カーチス・ルメイ少将を後任に任命した。 ルメイが着任するまでの間、司令官代理のサンダース准将は、アーノルドの求めるままに、7月7日に18機の少数で、長崎、佐世保、大村、八幡、7月26日には60機(72機出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山の昭和製鋼所、8月10日に60機が一旦セイロン島の基地まで進出後にパレンバンの製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃したが、いずれも大した成果を上げることなく終わった。日本に対する爆撃はいずれも夜間で、初回の八幡と同様に慣れないレーダー爆撃で十分な成果を上げられてないと認識していたサンダースは、唯一相応のダメージ(7.5%の減産)を与えることができた鞍山製鐵所への爆撃の例にならい、次の北九州への爆撃は高高度昼間精密爆撃を行いたいと第20空軍司令部に要望して承認された。 1944年8月20日、三度目の八幡爆撃が行われたが、今までの2回と異なり今回はB-29の61機による白昼堂々の来襲となった。数度にわたる日本本土への空襲への戦訓により、日本側も防空体制を相当に強化していたうえ、昼間でもあり初回とは異なり、前回同様の二式複座戦闘機「屠龍」に加えて、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」合計82機(他5機の一〇〇式司令部偵察機)が迎撃し、激しい空戦が繰り広げられた。前回までと異なり、7,000mもの高空で侵入してきたB-29に対して、高度8,000mで待ち構えていた日本軍機が突進したが、そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺、体当たり敢行」と無線発進すると、7,500mの高度で編隊長機であったガートルードCに突入、両機はバラバラになって落下したが、ガードルードCのエンジンが編隊2番機であったカラミティ・スーに命中し、同機も左翼を失い錐揉みを描いて落下していった。野辺は一度に2機のB-29を撃墜することとなった。他の迎撃機も活躍し、飛行第4戦隊の森本曹長の屠龍が4機を報告してこの日最大の戦果を挙げるなど、撃墜確実12機、不確実11機の大戦果、前回までは迎撃機の妨害にしかならなかったと揶揄された高射砲も9機撃墜を報告、また大村海軍航空隊の零戦と月光も、長崎一円を哨戒中に五島列島上空でB-29編隊を捕捉し3機撃墜確実、2機不確実を報じた。これらの戦果を合計すると、撃墜確実24機、不確実13機となり、対して損害は3機未帰還、5機が被弾した。 米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突で1機、日本機撃墜17を報告している。61機の出撃に対しての損失率は22.9%となり、第二次世界大戦中のB-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった。爆撃については、多数の500ポンド爆弾を製鐵所構内に投下させることに成功して、製鐵所は地上施設に相当の損害を被り、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれたが、48時間後には復旧した。同日は夜間にも10機が夜間爆撃を行い日本軍機も迎撃したが、戦果も損失もなかった。大きな損害を被った第20爆撃集団は衝撃を受けたが、それよりも大きな衝撃は、この作戦で損傷したB-29がシベリアのハバロフスクに不時着したが機体が押収され、搭乗員1名が抑留されているというニュースであった。アーノルドはこのニュースを聞くと、「敵の捕虜に対するものであり、決して連合軍将兵に対するものではない」「ゆるすことのできないことだ」とソビエト連邦を激しく非難したが、これはソビエト側が日ソ中立条約を締結している日本を刺激したくないと考えてとった行動で、のちに搭乗員はイラン国境からアメリカに返された。しかしB-29は返還せず、のちにデッドコピーされてTu-4が製造された。 こののちにウルフの後任ルメイが着任した。アーノルドからは作戦飛行の参加を禁じられていたが、ルメイは一度は自らで作戦飛行を経験しないと十分な作戦指揮ができないと考えており、一度だけの条件で作戦の空中指揮の許可をとった。その機会は着任直後の1944年9月8日の満州鞍山の昭和製鋼所への爆撃となり、ルメイはその日出撃した98機のB-29の指揮をとった。日本軍は二式複座戦闘機「屠龍」と二式単座戦闘機「鍾馗」約40機で迎撃したが、高度が7,500mから8,500mの高高度であったことから、高高度性能不足で思うように攻撃ができず、また日本軍機はB-29の速度を見誤っており、ほとんどが有効弾を与えることができなかった。やがて製鐵所に近づくと激しい高射砲の射撃を受け、ルメイの搭乗機も被弾したが、高射砲弾の破片で20cmの穴が開き、2名の搭乗員が軽傷を負っただけで飛行に支障はなかった。この日は4機のB-29が失われたが、合計206トンの爆弾が投下された製鐵所はかなりの損害を被るなど作戦は成功した。 その後もルメイはインドを拠点に、九州、満州、東南アジアへの爆撃を継続、11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)。
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