日本本土空襲開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
詳細は「B-29 (航空機)」を参照 アメリカは大型戦略爆撃機「B-29」の開発を進めていたが、B-29の作戦準備が整うまでに、「ドイツの工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と分析し、B-29を日本に対して使用すると決定した。1943年1月に開催されたカサブランカ会談の席上で、ルーズベルトは蔣介石に中華民国を基地とする日本本土への爆撃計画を検討すると告げた。日本軍も軍務局長佐藤賢了少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集した。1943年10月13日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルドが日本本土空襲作戦計画マッターホルン作戦を作成、ルーズベルトはこれを承認し、ケベック会談でチャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蔣介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう要請した。ケベック会議後には、マリアナ諸島を攻略してB-29の基地とし日本本土を爆撃するという計画も検討され、1943年12月のカイロ会談で再度議論された。ルーズベルトはこの提案を大いに評価し、この案は採用された。マッターホルン作戦では中国内のB-29前進基地への補給には十分な量の輸送が困難な空路に頼りざるを得ないが、マリアナ諸島へは海路で大量の物資を安定的に補給できるのが、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。 一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦(大陸打通作戦)が立案された。翌1944年1月には、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として大本営命令が発令された。日本軍は桂林、柳州地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、日本軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を成都まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍70万人を撃破するなど、多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心の日本本土空襲阻止という最大の目的は達成できなかった。 着々と準備を進めたアメリカ軍は、1944年6月15日に成都から75機のB-29による八幡製鐵所を主目標とする日本初空襲を行った(八幡空襲)。B-29は灯火管制で目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、主目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。爆撃を指揮したアラン・クラーク大佐は「作戦の結果はみじめなものだった。八幡地区に落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率はごくわずかで、30kmも離れておちたものもいくつかあった。レーダー手がレーダー爆撃になれていないためだった」と評価したが、製鐵所に命中しなかった爆弾が八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側は、B-29の想定以上の性能に衝撃を受け、西日本の防空体制の再構築が急がれることとなった。軍が受けた衝撃は大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の迎撃で6機のB-29を撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられた。一方、アメリカではB-29による日本本土初空襲成功のニュースとして大々的に報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われたノルマンディ上陸作戦に匹敵する大きさで、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。ノルマンディを訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカは航空戦力としてははじめての、最大の打撃を与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明を発表した。 八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルドは第20爆撃集団司令官のケネス・B・ウルフ准将に、引き続いての日本本土爆撃を命じた。しかし、第20爆撃集団の最大の弱点である中国国内の前進基地への補給問題は改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地の燃料備蓄量はわずかとなっており、当面の間は作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルドの命令は実行不可能と考えていたが、アーノルドはウルフを消極的と断じて更迭、ヨーロッパ戦線で活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍カーチス・ルメイ少将を後任に任命した。しかし、中国成都からの出撃では九州を爆撃するのがやっとで、またB-29の機数も少なく、補給の問題もあったことから、日本の被害は限定的であった。また、日本軍の迎撃も激烈であり、1944年8月20日の白昼に行われた3度目の八幡爆撃では、61機のB-29に対して。陸軍の四式戦闘機「疾風」二式複座戦闘機「屠龍」や海軍の「零戦」と「月光」など合計100機以上が迎撃し、撃墜確実24機、不確実13機を報告するなど大戦果を挙げている。アメリカ軍の損失記録でも出撃61機中14機損失で損失率は22.9%となり、B-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった。
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