ドーリットル空襲
東京初空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:04 UTC 版)
「B-29 (航空機)」の記事における「東京初空襲」の解説
サイパン島は7月9日にアメリカ軍の手に落ち、ついでグアム島、テニアン島も8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島はアメリカ軍のものとなった。これにより、日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲内に入ることとなった。その重要性を痛感した永野修身軍令部総長は当時の思いを「サイパンをうしなった時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と振り返り、防衛総司令官であった皇族の東久邇宮稔彦王は「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた。 9月3日、朝日新聞はタイム誌(1944年〈昭和19年〉6月26日号)に掲載されたB-29の写真を『これがB29だ』というタイトルの記事で紹介した。「日本空襲の効果をも見究めずに派手に発表するところに米国式の対内外宣伝と謀略が含まれている」と論評した。 マリアナでの飛行場整備は、サイパン島で日本軍と戦闘中であった1944年(昭和19年)6月14日には開始されて、同年10月には、サイパン島、グアム島、テニアン島に合計5か所の飛行場が完成した。10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったハンセルが任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ。日本軍は硫黄島より偵察機を飛ばしてマリアナ諸島の飛行場を偵察していたが、1944年(昭和19年)9月23日の偵察写真でB-29が近く配属される準備が進んでいることを確認し、10月下旬には進出が進んでいると分析、11月6日には飛行場に整列しているB-29の写真を撮影することに成功した。 11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が、ドーリットル以来東京上空を飛行した。11月11日に計画している東京の中島飛行機武蔵野工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。トウキョウローズの東京飛行は本家の東京ローズを刺激し、東京ローズはその後の対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で、「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という物騒な警告を流している。 B-29による帝都東京への空襲の危険性が高まる中、北九州での戦闘の経験も踏まえて、B-29を確実に撃墜する戦法の検討がなされた。1944年(昭和19年)10月に首都防空部隊であった第10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った。同年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は震天制空隊と命名された。 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断した東部軍は隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は目標上空では9,150 mを維持せよとの指示を受けており、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃が低調であったため胸をなでおろしている。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果を報じたが、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。日本軍は未帰還6機、一般市民の死者55名であったが、主要目標の武蔵野工場施設の損害は軽微であった。B-29はノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2 %程度だったという。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ爆撃を敢行。ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。この爆撃は、今までの爆撃とは異なり、工場などの特定の施設を目標としない東京の工業地帯を目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は少なかった。 日本軍も、B-29の基地サイパン島に対して空襲を行った。第1回は偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年(昭和19年)11月2日で、陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった。また、東京がB-29の初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機がサイパン島イズリー飛行場を爆撃し、B-29を1機を完全撃破、11機を損傷させ2機とも生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきたP-47と対空砲火により全機未帰還となった。新海の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を3機を撃破、23機を損傷させている。最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった。一方日本軍は延べ80機を出撃させて37機を損失したが、日本軍の損失の多くが戦闘機であったのに対して、アメリカ軍は高価なB-29多数と日本軍を上回る人的損害を被っており、マリアナ諸島への航空攻撃はアメリカの戦略に大きな影響は与えなかったが、相応の効果を挙げていたことになる。アーノルドはB-29が戦わずして失われていくことに対して神経を尖らせており、ハンセルもB-29を混雑気味のサイパン島イスリー飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦をレーダーピケット艦として配置するなどの対策に追われたが、やがて、日本軍の出撃基地であった硫黄島への攻撃が激化すると、マリアナ諸島への攻撃は無くなった。 また日本軍は、航空機によるマリアナ諸島への攻撃と並行して、サイパン島に空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画し、挺進集団に特殊部隊の編制を命じている。特殊部隊は挺進第1連隊の空挺隊員で編成され、奥山道郎大尉が部隊指揮官に任命された。特殊部隊には陸軍中野学校の諜報員も入れられ、原寸大模型を用いたB-29の爆破訓練も行われた。この特殊部隊はのちに「義烈空挺隊」と命名されたが、出撃基地の予定であった硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高くなったため、作戦は中止された。のちに義烈空挺隊は沖縄戦において、アメリカ軍飛行場破壊任務に投入されて、アメリカ軍機9機を破壊炎上、29機を損傷させたのちに全滅し、アメリカ軍を大混乱に陥らせている。 義烈空挺隊の成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦を準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。空挺隊員をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにも関わらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。
※この「東京初空襲」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。
「東京初空襲」を含む「B-29 (航空機)」の記事については、「B-29 (航空機)」の概要を参照ください。
- 東京初空襲のページへのリンク