東京初空襲とは? わかりやすく解説

ドーリットル空襲

(東京初空襲 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/19 18:18 UTC 版)

ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)は、太平洋戦争第二次世界大戦)中の1942年(昭和17年)4月18日アメリカ軍アメリカ陸軍航空軍爆撃機航空母艦より発進)によって実施した日本本土に対する初めての空襲のこと[3][4][5]。名称は爆撃機隊の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する[6]




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東京初空襲

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B-29 (航空機)」の記事における「東京初空襲」の解説

サイパン島7月9日アメリカ軍の手落ち、ついでグアム島テニアン島8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島アメリカ軍のものとなった。これにより、日本主要都市のほぼすべてがB-29攻撃可能範囲内に入ることとなった。その重要性痛感した永野修身軍令部総長当時思いを「サイパンうしなった時は、まったく万事休すでした。日本文句なし恐るべき事態直面することになりました」と振り返り防衛総司令官であった皇族東久邇宮稔彦王は「B-29並外れた兵器であり、このような兵器対抗する手段日本にはもうなかった」と考えた9月3日朝日新聞タイム誌1944年昭和19年6月26日号)に掲載されB-29写真を『これがB29だ』というタイトル記事紹介した。「日本空襲効果をも見究めずに派手に発表するところに米国式の対内宣伝謀略含まれている」と論評したマリアナでの飛行場整備は、サイパン島日本軍戦闘中であった1944年昭和19年6月14日には開始されて、同年10月には、サイパン島グアム島テニアン島合計5か所の飛行場完成した10月12日マリアナ諸島B-29運用する第21爆撃集団新設されて、司令官には第20空軍参謀長であったハンセル任命された。ハンセルマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島乗り込んだ日本軍硫黄島より偵察機飛ばしてマリアナ諸島飛行場偵察していたが、1944年昭和19年9月23日偵察写真B-29近く配属される準備進んでいることを確認し10月下旬には進出進んでいると分析11月6日には飛行場整列しているB-29写真撮影することに成功した11月1日B-29偵察型F-13のトウキョウローズ機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が、ドーリットル以来東京上空飛行した11月11日計画している東京中島飛行機武蔵野工場爆撃のための事前偵察任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍迎撃機はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初め東京上空飛行したトウキョウローズ東京飛行本家東京ローズ刺激し東京ローズその後の対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で、「東京最初の爆弾落とされると、6時間後にはサイパンアメリカ人一人生きていないでしょう」という物騒な警告流している。 B-29による帝都東京へ空襲危険性が高まる中、北九州での戦闘経験踏まえてB-29確実に撃墜する戦法検討なされた1944年昭和19年10月首都防空部隊であった10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将幕僚は、武装防弾装備通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっと効果的結論しこれまでのような搭乗員自発的なものではなく組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田隷下部隊対し敵機帝都空襲間近にせまっている。師団初度空襲において体当たり攻撃行い大打撃与えて敵の戦意破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃志願者募った同年11月7日吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令発令された。この対空特攻部隊震天制空隊命名された。 11月11日予定していた東京初空襲は天候恵まれず延期続いていたが、11月24日にようやく天候回復したため、111機のB-29それぞれ2.5トン爆弾搭載して出撃した。東部軍司令部には、小笠原諸島設置されレーダー対空監視所から続々大編接近情報寄せられたため、明らかに東京空襲意図していると判断した東部軍隷下の第10飛行師団迎撃命じ正午空襲警報発令した迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊加わり鍾馗零戦飛燕屠龍月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94となったB-29襲い掛かったが、B-29目標上空では9,150 m維持せよとの指示受けており、日本軍機や高射砲弾多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃低調であったため胸をなでおろしている。それでも日本軍震天制空隊見田義雄伍長鍾馗体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果報じたが、アメリカ側記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。日本軍は未帰還6機、一般市民死者55であったが、主要目標の武蔵野工場施設損害軽微であったB-29ノルデン爆撃照準器使って工場施設限定精密照準爆撃行なったが、投下した爆弾目標から大きく外れるなどした結果命中率2 %程度だったという。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初め東京市街地へ爆撃敢行ハロルド・M・ハンセン少佐指揮機体番号42-65218機が帰路海上墜落乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦遂行した。この爆撃は、今まで爆撃とは異なり工場などの特定の施設目標としない東京工業地帯目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害少なかった日本軍も、B-29基地サイパン島に対して空襲行った第1回偵察機型F-13が東京上空初め飛来し翌日1944年昭和19年11月2日で、陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機出撃、3機が未帰還となったアメリカ軍被害はなかった。また、東京B-29初空襲を受けた3日後の11月27日報復攻撃として、陸海軍共同サイパン飛行場攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率い第二独立飛行隊四式重爆撃機2機がサイパン島イズリー飛行場爆撃しB-29を1機を完全撃破11機を損傷させ2機とも生還した続いて海軍航空隊大村謙次中尉率い第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場機銃掃射B-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきたP-47対空砲火により全機帰還となった新海第二独立飛行隊12月7日夜間攻撃でもB-29を3機を撃破23機を損傷させている。最後大規模攻撃となったのは同年クリスマスで、まず錫箔貼っ模造紙電探紙、今で言うチャフ)を散布しレーダー欺瞞させた後に高低同時進入という巧妙な攻撃サイパン島テニアン島攻撃しB-29を4機撃破11機に損傷与えている。1945年昭和20年2月2日まで続いた日本軍マリアナ諸島航空基地攻撃により、B-2919機完全撃破もしくは大破35機が損傷しアメリカ軍死傷者245となった一方日本軍延べ80機を出撃させて37機を損失したが、日本軍損失多く戦闘機であったに対してアメリカ軍高価なB-29多数日本軍上回る人的損害被っており、マリアナ諸島への航空攻撃アメリカの戦略大きな影響与えなかったが、相応効果挙げていたことになる。アーノルドB-29戦わずして失われていくことに対して神経尖らせており、ハンセルB-29混雑気味のサイパン島イスリー飛行場から、他飛行場避難させたり、基地レーダー強化したり、駆逐艦レーダーピケット艦として配置するなどの対策追われたが、やがて、日本軍出撃基地であった硫黄島へ攻撃激化すると、マリアナ諸島への攻撃無くなった。 また日本軍は、航空機によるマリアナ諸島への攻撃並行してサイパン島空挺部隊編成した特殊部隊送り込み地上B-29殲滅しようと計画し挺進集団特殊部隊編制命じている。特殊部隊挺進第1連隊空挺隊員編成され奥山道郎大尉部隊指揮官任命された。特殊部隊には陸軍中野学校諜報員入れられ原寸大模型用いたB-29爆破訓練行われた。この特殊部隊はのちに「義烈空挺隊」と命名されたが、出撃基地予定であった硫黄島アメリカ軍侵攻してくる可能性高くなったため、作戦中止された。のちに義烈空挺隊沖縄戦において、アメリカ軍飛行場破壊任務投入されて、アメリカ軍機9機を破壊炎上29機を損傷させたのちに全滅しアメリカ軍大混乱に陥らせている。 義烈空挺隊成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害日本軍による空挺特攻作戦警戒していたアメリカ軍は、日本軍空挺特攻作戦準備進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機出撃基地であった三沢基地を、8月9日10日艦載機猛爆撃した。空挺隊員サイパン島空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにも関わらずアメリカ軍艦載機航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした。輸送部隊壊滅により作戦延期余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。

※この「東京初空襲」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。
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