早潮 (駆逐艦)
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早潮 | |
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基本情報 | |
建造所 | 浦賀船渠 |
運用者 | ![]() |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 陽炎型 |
艦歴 | |
計画 | ③計画 |
起工 | 1938年6月30日[1] |
進水 | 1939年4月19日[1] |
竣工 | 1940年8月31日[1][注釈 1] |
最期 | 1942年11月24日、フォン湾にて戦没。 |
除籍 | 1942年12月24日 |
要目 | |
基準排水量 | 2,033トン |
全長 | 118.5 m |
最大幅 | 10.8 m |
吃水 | 3.8 m |
主缶 | ロ号艦本式缶×3基 |
主機 | 艦本式衝動タービン×2基 |
出力 | 52,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 35.5ノット (65.7 km/h) |
航続距離 | 5,000海里 (9,300 km)/18ノット |
乗員 | 239名 |
兵装 |
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ソナー | 九三式水中探信儀 九三式水中聴音機 |
早潮(はやしお / はやしほ)は[2]、日本海軍の駆逐艦[3]。陽炎型駆逐艦の5番艦である[4]。1942年(昭和17年)11月下旬、ラエ沖で空襲により大破、沈没した[5]。戦後、艦名は海上自衛隊の潜水艦(はやしお (初代)、はやしお (2代))に継承された。
概要
1940年(昭和15年)8月末に浦賀船渠で完成した陽炎型駆逐艦5番艦[4]。太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊麾下の第十五駆逐隊に所属して南方作戦にともなう比島作戦や蘭印作戦に従事[6]。1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦では第十一航空戦隊(千歳、神川丸)の護衛に従事した[6][7]。8月以降のガダルカナル島の戦いでは、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦等に並行して、鼠輸送(ガダルカナル島輸送作戦)に多数参加[6]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では[8]、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)旗艦となる[9][10]。同海戦直後の11月24日、ニューギニア東部ラエ増援作戦従事中[11]、フォン湾で連合軍重爆撃機の夜間空襲を受けて大破、炎上する[12]。僚艦「白露」の砲撃で自沈した[13]。
艦歴
建造
1938年(昭和13年)6月30日、浦賀船渠で起工[1]。1939年(昭和14年)3月31日、「早潮」と命名され[2][14]、同日付で艦艇類別等級表に類別される[15]。4月19日、進水[1]。
1940年(昭和15年)5月1日、山隈和喜人中佐が「早潮」艤装員長に任命される[16][注釈 2]。同日、浦賀船渠の艤装員事務所は事務を開始する[19]。 8月31日に竣工[注釈 1]。山隈中佐も制式に早潮駆逐艦長となった[20]。艤装員事務所は撤去された[21]。呉鎮守府籍。
第十五駆逐隊
1940年(昭和15年)8月31日、日本海軍は陽炎型3隻(親潮、夏潮、早潮)で第十五駆逐隊を編制した[22]。初代駆逐隊司令には植田弘之介大佐が任命されている[20]。編制直後の第十五駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[23]。11月15日、第十五駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[24][25]。同時に第十六駆逐隊に所属していた陽炎型3番艦「黒潮」が第十五駆逐隊に編入され、十五駆は定数4隻を揃えた[24][26]。
1941年(昭和16年)6月18日、第十五駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐[27]に交代した。 9月1日、山隈中佐(早潮艦長)は第11掃海隊司令[28] へ転任[29]。 金田清之中佐[注釈 3]が、駆逐艦長(二代目)に補職される[28]
太平洋戦争開戦時、「早潮」は引続き第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将、旗艦「神通」)・第十五駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)に所属し、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[32][33]。また二水戦(神通、第八駆逐隊、第十五駆逐隊、敷設艦「白鷹」、哨戒艇2隻)で第五急襲隊を編成していた[34]。第五急襲隊は11月26日に内海西部を出発、南方部隊本隊と行動することになった第八駆逐隊を途中で分離し、12月2日パラオに到着した[35]。
1941年(昭和16年)12月8日の開戦以後、第二水雷戦隊[注釈 4]は比島部隊に所属してダバオ、レガスピー、ホロ攻略作戦に参加した[36][37][38]。フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は12月28日付で「蘭印部隊」となり、東南アジアでの作戦に従事する[39][40]
1942年(昭和17年)1月、第十五駆逐隊はスラウェシ島メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー、アンボン、マカッサル、ティモール島クーパンなど各方面攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した[41][42]。マカッサル攻略戦従事中の2月9日、アメリカ潜水艦「S-37(USS S-37, SS-142)」の雷撃により僚艦「夏潮」が沈没[43][44]。佐藤司令は司令駆逐艦を「親潮」に変更した[45]。第十五駆逐隊は陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制になった[46]。
3月初頭、高雄型重巡洋艦3隻(愛宕〔第二艦隊旗艦、近藤信竹中将座乗〕、高雄、摩耶)、第四駆逐隊(嵐、野分)はスラウェシ島スターリング湾を出撃してジャワ島南方に進出、通商破壊作戦を実施する[47]。重巡部隊を支援していた「早潮」は、3月2日にオランダ船籍の輸送船(1,100トン)を拿捕した[48]。3月3日、重巡部隊は「早潮」と油槽船「東栄丸」と合同、補給を行う[49]。3月7日、各艦はスターリング湾に帰投した[50]。
3月15日、第十五駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)は空母「加賀」(第一航空戦隊)[注釈 5]を護衛してスターリング湾を出港した[52][24][53]。途中、「黒潮」は二水戦旗艦「神通」護衛のため分離した[54]。3月22日、「加賀」は佐世保に到着[53]、佐世保海軍工廠で修理をおこなう[55]。同日、第十五駆逐隊は呉に到着する[52][56]。3月23日から4月17日まで「早潮」は呉で整備に従事した[57]。
4月10日、日本海軍は南西方面艦隊を新編し、隷下の第三南遣艦隊は引き続き比島部隊としてマニラ湾の封鎖任務や陸軍輸送船護衛任務を続けていた[58][59]。 4月17日、第十五駆逐隊は呉を出撃[60]、比島作戦に協力するためフィリピンへ向かう[61]。翌4月18日、米軍はドーリットル空襲を敢行する[62][63]。第十五駆逐隊は宮崎県沖合でドーリットル隊のB-25を発見、「黒潮」が対空射撃をおこなった[64]。また米軍機動部隊を邀撃するため、第十五駆逐隊は警戒部隊に編入される[60][65]。警戒部隊指揮官高須四郎中将の指揮下兵力[注釈 6]や他部隊から派遣された艦艇・航空隊と共に日本列島沿岸の警備にあたるが、米軍機動部隊との交戦は起きなかった[66]。本作戦従事中の4月19日朝、「早潮」はソビエト商船の臨検を実施しているが、連行中に悪天候でソ連商船を見失い[67]、日本海軍は基地航空隊を投入して捜索活動をおこなっている[68]。4月20日夜、連合艦隊は作戦中止を発令する[69]。第二戦隊等は内海西部へ帰投、第十五駆逐隊はフィリピンへ向かった[65]。
当時、日本海軍の比島部隊(指揮官杉山六蔵第三南遣艦隊司令長官、旗艦「球磨」)は、ビサヤ諸島とミンダナオ島における日本陸軍の戡定作戦に協力していた[70]。フィリピン進出後の第十五駆逐隊も戡定作戦に従事する。4月28日、第十五駆逐隊第1小隊(親潮、黒潮)は陸軍輸送船の護衛を命じられてビサヤ諸島へ出撃[71]、第2小隊(早潮)はマニラ封鎖部隊に編入された[72]。5月10日、第十五駆逐隊は比島部隊から除かれた[72]。同日、マニラを出発。サイパン島付近で内地に向かう空母「翔鶴」と護衛の駆逐艦2隻(夕暮、漣)と合流する[73][74]。5月17日、「翔鶴」と護衛部隊は呉に帰投した[74][75]。
ミッドウェー海戦
5月下旬から6月上旬にかけてのミッドウェー作戦における第十五駆逐隊は、「親潮」と「黒潮」は輸送船団護衛隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)に所属していたが[76]、「早潮」は第十一航空戦隊(司令官藤田類太郎少将)を基幹とする航空隊(水上機母艦「千歳」、特設水上機母艦「神川丸」、駆逐艦「早潮」、第三十五号哨戒艇[注釈 7]、海軍第二聯合特別陸戦隊1個小隊)として行動した[57][注釈 8]。 航空隊の主任務は、ミッドウェー島攻略部隊の対潜・対空警戒、キューア島(クレ環礁)の攻略、ミッドウェー占領後の水上機基地設営等であった[82]。「早潮」は呉で緊急整備をおこなったのち、佐世保に移動する[83]。同地より十五駆は「千歳」を護衛する[83]。5月26日、「千歳」はサイパン島に進出した[84]。
5月28日夕刻以後、ミッドウェー占領隊(輸送船12隻、補給船3隻。設営隊、第二聯合特別陸戦隊[注釈 9][86]、護衛隊〈旗艦「神通」、第十五駆逐隊、第十六駆逐隊、第十八駆逐隊など〉)、航空隊(千歳、神川丸、早潮、三十五号哨戒艇)はサイパン島を出撃、ミッドウェーに向かった[87][88]。航空隊は船団部隊と行動を共にし、水上機により対潜・対空哨戒をおこなった[89][90]。輸送船、護衛艦艇とも、対空火器は極めて貧弱であった[91]。翌5月29日、船団部隊はグァム島からきた最上型重巡洋艦を基幹とする支援隊[注釈 10]と合流する[89]。5月30日夜、船団部隊は支援隊を見失い、そのまま連絡がとれなくなった[93]。 6月4日、航空隊は事前の計画どおり船団部隊と分離して、ミッドウェー北西約17海里に位置するキューア島に向かった[94]。当時、船団はB-17重爆9機の空襲を受けたが、特に被害はなかった[95][96]。真夜中に飛行艇による夜間攻撃を受け、輸送船2隻が損傷した[97][98]。
6月5日10時、攻略部隊指揮官(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)は[99]、船団部隊(指揮官・田中少将)に対し、第十一航空戦隊司令官指揮による輸送船団の避退と、第二水雷戦隊の攻略部隊本隊(第二艦隊)への合流を命じる[100]。キューア島に向かっていた航空部隊は反転、高速を発揮できる「千歳」と「早潮」は同日16時30分に、低速の「神川丸」と「第三十五号哨戒艇」は6月6日4時に、それぞれ船団部隊と合流する[101]。前述のように護衛部隊指揮官は指揮下部隊(神通、第十六駆逐隊、第十八駆逐隊)を率いて攻略部隊本隊にむけ進撃していたので、第十五駆逐隊[102]を含め船団部隊の指揮は藤田少将(十一航戦司令官)がとった[101]。船団部隊(編隊速力11.5ノット)は藤田司令官の指揮下で南鳥島方面への退避を続けた[103]。
6月7日、藤田司令官は重巡「三隈」と「最上」に対する米空母機の攻撃を知り、船団部隊も翌日には敵空母部隊に捕捉され空襲に晒されると判断した[104]。そこで速力を基準に船団部隊を三分割、一刻もはやく南鳥島の飛行威力圏内に避退することにした[104][注釈 11][注釈 12]。航空隊は、船団部隊二番隊と三番隊の中間付近に位置した[104]。
6月8日朝、藤田司令官は敵機動部隊からの離脱に成功したと判断し、分割していた船団を合同した[105]。17時10分、「神川丸」は連合艦隊からの下令により船団部隊と分離、翌日には第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)と合流して北方に向かった[81]。また船団部隊の指揮は藤田少将(第十一航戦司令官)から田中少将(二水戦司令官)に復帰する[81]。6月9日正午、「千歳」と「早潮」は船団部隊から分離する[106][注釈 13]。6月14日、「千歳」「早潮」は桂島泊地に入泊した[106][108]。同日夕刻には[109]、戦艦「大和」なども桂島泊地に帰投した[110][注釈 14]。
7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の第十八駆逐隊の駆逐艦3隻(不知火、霞、霰)は[112]、アメリカ潜水艦「グロウラー (USS Growler, SS-215) 」の雷撃により「霰」沈没、「不知火」大破、「霞」大破という損害を受ける[113][114](7月5日の海戦)[115]。駆逐隊として当分活動できないため[116]、残存かつ健在の駆逐艦「陽炎」は7月20日付で第十五駆逐隊に編入された[117][118]。第十五駆逐隊は再び陽炎型定数4隻となった[119]。艦隊の編制替えにより、二水戦も軽巡「神通」、第十五駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、陽炎)、第二十四駆逐隊(海風、江風、涼風)となった[112]。
ガダルカナル島の戦い
1942年(昭和17年)6月末、連合艦隊司令長官山本五十六大将は南西方面艦隊に対し、7月下旬から8月下旬にかけてインド洋方面で通商破壊機動作戦を実施するよう命じた(連合艦隊電令作第174号)[120]。作戦名はB作戦であった[121]。南西方面艦隊の従来戦力(軽巡「鬼怒「長良」、練習巡洋艦「香椎」、駆逐艦「春風」、海防艦「占守」など)に加え、連合艦隊所属の一部戦力もB作戦に参加することになった[122]。作戦全体の指揮官は第一南遣艦隊司令長官(旗艦「香椎」)[注釈 15]。「早潮」は機動部隊南方隊[注釈 16]に所属していた[124]。 B作戦参加部隊は、7月31日までにマレー半島西岸メルギーに集結した[124][125]。8月7日、ガダルカナル島攻防戦の生起によりB作戦は中止され[126]、増援部隊はソロモン諸島への移動を開始した[127][128]。
8月下旬の第二次ソロモン海戦で日本軍は敗北[129]。 輸送船団によるガ島揚陸作戦は中止された[130]。同海戦で中破した軽巡「神通」はトラック泊地に後退して修理をおこない、二水戦は「早潮」を旗艦として9月上旬の川口支隊総攻撃掩護作戦に従事した[131][132]。9月25日[133]、二水戦旗艦は「神通」から軽巡「五十鈴」に交代した[134]。
続いて二水戦の大部分はガダルカナル島輸送に投入される[135]。9月30日、ニューアイルランド島カビエンで水上機母艦「日進」と合流し、同艦を護衛して「親潮」「早潮」はショートランド泊地に到着した[136][137]。10月3日以降、第十五駆逐隊は外南洋部隊増援部隊の僚艦と共にガ島輸送作戦(鼠輸送)に従事した[138][139]。10月9日、第十五駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の6隻(親潮、黒潮、早潮、龍田、野分、舞風)はショートランド泊地を出撃[138]、日本陸軍第十七軍(司令官百武晴吉陸軍中将以下770名)をガ島に輸送する[140][注釈 17]。輸送作戦は成功し、百武中将や辻政信中佐はガ島に上陸した[143][144]。10月10日、輸送部隊はショートランド泊地に戻った[145]。
10月中旬のヘンダーソン基地艦砲射撃では[146][147]、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[148]、第三戦隊(金剛、榛名)、第二水雷戦隊[注釈 18]として参加する[150]。飛行場砲撃実施のため第十五駆逐隊は10月11日付で前進部隊に復帰[151]、ショートランド泊地帰投後に即日出港する[145]。10月12日12時30分、洋上で第三戦隊以下と合流した[145]。10月13日から14日にかけて、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃をおこなう第三戦隊を護衛した[152]。10月15日夜、第五戦隊(妙高、摩耶)と第三十一駆逐隊がガ島海域に突入し、ヘンダーソン飛行場を砲撃する[153][154]。二水戦(五十鈴、第十五駆逐隊)は射撃隊の警戒に従事した[155]。続いて支援部隊・前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属して南太平洋海戦に参加する[156][157]。10月26日の海戦当日、「黒潮」と「早潮」は第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)旗艦「隼鷹」を護衛しており[158]、空母「ホーネット (USS Hornet, CV-8) 」の追撃には参加していない[159]。
11月1日、連合艦隊は損傷艦の修理とガ島輸送部隊増強をかねて兵力部署の再編を実施する[160](11月1日0821、聯合艦隊電令作第366号)[161]。第二水雷戦隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入され、11月3日にトラック泊地を出発、11月5日11時30分ショートランド泊地に進出した[162]。外南洋部隊増援部隊の職務は第三水雷戦隊司令官から第二水雷戦隊司令官に引き継がれ[163]、三水戦はトラック泊地に帰投した[164][165]。11月6日から7日にかけて、「早潮」を含む甲増援隊[注釈 19]でガ島輸送を実施する[162]。空襲で「長波」と「高波」が小破したが、作戦は成功した[167]。
11月12日、第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将(輸送部隊指揮官)は二水戦旗艦を「五十鈴」から「早潮」に変更する[168]。同日15時30分、挺身輸送船団[注釈 20]はショートランド泊地を出撃[171]、ガダルカナル島に向かう[172][173]。だが飛行場砲撃に向かった挺身攻撃隊(比叡、霧島、第十戦隊、第四水雷戦隊)が夜間水上戦闘に巻き込まれる[174][175]。挺身輸送船団[176]は連合艦隊の命令により11月13日午前3時に反転し、午前11時頃ショートランド泊地に戻った[10](第三次ソロモン海戦・第1夜戦)[177][178]。
11月13日朝、外南洋部隊主隊[注釈 21]と支援隊(旗艦「鈴谷」)[注釈 22]はショートランド泊地を出撃[180]、支援隊は同日深夜にガ島ヘンダーソン飛行場砲撃を敢行した[178][181]。挺身輸送船団は同日15時30分、ショートランド泊地を再出撃した[177][182]。11月14日朝、輸送船団はニュージョージア島東方海域で索敵機に発見される[182]。以後、F4F、SBD、TBF、B-17の波状攻撃を受けた[注釈 23][184][185]。 零式艦上戦闘機のべ36機、零式観測機14機が上空警戒をおこなったが、敵機を阻止できなかった[182]。輸送船6隻が沈没[186]、「佐渡丸」のみ損傷避退した[187][188]。 第二水雷戦隊と残存輸送船4隻(宏川丸、山月丸、山浦丸、鬼怒川丸)は進撃を続行し[189][190]、輸送船4隻はガダルカナル島タサファロング沿岸に突入・擱座した[9][191]。約2000名が上陸したが[192]、無傷で揚陸できた物資・糧食・重火器は少量であった[193][194]。またガ島から生還できた輸送船4隻の乗組員も、小数であった[195][196]。11月15日夜、第二水雷戦隊はショートランド泊地に帰投した[197]。第三次ソロモン海戦は日本軍の大敗で終わり[187]、ガダルカナル島撤退の決定的要因となった[198]。
沈没
11月16日、連合軍がニューギニア島東部ブナ地区に上陸を開始し[199][200]、パプアニューギニア方面で攻勢に出た[201][202]ため、第十七軍は隷下の南海支隊の一部兵力をブナに輸送することになった[203]。外南洋部隊はブナ増援輸送をかねて兵力部署の変更を発令する[11][204]。「早潮」は「鳥海」を護衛してトラック泊地に向かった「涼風」の代艦として支援隊に編入され[204][205]、第二水雷戦隊各艦と分離してカビエンへ移動する[206]。
11月19日、「早潮」はブナ増援輸送従事中にB-17の攻撃で航行不能となった「海風」の代艦としてR方面防備部隊(指揮官金沢正夫第八根拠地隊司令官)に編入され、ラバウルに移動した[207][208]。ラバウルの「早潮」では陸戦隊員や物資の積みこみと共に、幹部乗組員以下の人事異動が行われたという[209]。
ブナ方面の戦局が重大視される中、外南洋部隊(第八艦隊)はR方面防備部隊の負担が重くなりすぎたことを考慮し、東部ニューギニア方面の防備を第七根拠地隊司令官に、東部ニューギニア方面輸送を第十八戦隊司令官松山光治少将に委ねた[210]。同日12時40分、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は兵力部署の改定を発令(外南洋部隊電令作第135号)、その中で「六 東部ニューギニア方面護衛隊 第十八戦隊司令官 第十八戦隊(龍田欠)、第八駆逐隊(満潮欠)、第十駆逐隊(秋雲欠)、春雨、白露、電、磯波、早潮 東部ニューギニア方面ニ対スル輸送作戦」と定めた[211]。
同日21時、「春雨」(旗艦)以下駆逐艦5隻の輸送隊(指揮官:第二駆逐隊司令橘正雄大佐)はラバウルを出港し、ニューギニア島のラエへ向かった[212][213]。本作戦は、東部ニューギニア方面護衛隊編成後の最初の輸送であった[214]。
翌11月24日午後7時前後、輸送隊はラエ東方フォン湾でB-17爆撃機7機の攻撃を受ける[215]。「早潮」は至近弾により浸水して左舷機械が使用不能となり、応急処置を実施した[216][217]。また、2番砲塔は射撃不能となって死傷者も出ており、3番砲塔も人員は無事であったものの射撃通信装置故障で射撃困難となっていたという[218]。敵機触接下での揚陸は不可能と判断した第二駆逐隊司令は、部隊の反転を命じた[216]。応急処置完了後の「早潮」は速力28ノットを発揮していたところ、19時10分から25分にかけて至近弾と命中弾を受ける[216]。一番砲塔と艦橋間に受けた直撃弾により大火災となった[219][220]。「春雨」が接舷を試みたが、誘爆の危険により果たせなかった[221]。弾薬や燃料に引火して手の施し様がなくなり、金田中佐(早潮艦長)は20時25分に総員退去と軍艦旗降下を命じる[216][219]。脱出者は僚艦が派遣した装載艇に救助されていった[222][223]。金田中佐は頭部負傷により意識不明となり、その間に救助されていたという[224]。その後「早潮」は「白露」の砲撃により魚雷が誘爆、23時5分に沈没した[223][225]。戦死者約50名[226]。沈没地点記録南緯06度54分 東経147度55分 / 南緯6.900度 東経147.917度[216]。
駆逐艦「早潮」は12月24日付で、帝国駆逐艦籍、第十五駆逐隊、陽炎型駆逐艦のそれぞれから除籍された[227]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 駆逐艦長
脚注
注釈
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』による。『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』では1940年8月21日竣工となっている。
- ^ 山隈は、駆逐艦「荒潮」艤装員長[17] および初代駆逐艦長[18]、駆逐艦「皐月」「初雪」艦長等を歴任していた。
- ^ 金田中佐は、駆逐艦「長月」および「菊月」艦長[30][31]、駆逐艦「時雨」艦長等を歴任していた。
- ^ 二水戦の第十八駆逐隊(不知火、霞、陽炎、霰)は南雲機動部隊の警戒部隊に所属し、別行動。二水戦・第八駆逐隊(大潮、朝潮、荒潮、満潮)も南方部隊本隊となり別行動となる。
- ^ 前月上旬にパラオで座礁、艦底を損傷していた[51]。
- ^ [65]。
- ^ 樅型駆逐艦の「蔦」を哨戒艇に改造したもの。
- ^ 特設水上機母艦「神川丸」は第四艦隊付属だったが、アメリカ潜水艦「ドラム (USS Drum, SS-228) 」に撃沈された水上機母艦「瑞穂」[77][78]の代艦として、5月20日付で航空部隊[79]および第十一航空戦隊[80]に編入されていた。「神川丸」には、キューア島攻略のため二聯特1個分隊が乗艦している[81]。
- ^ 第二聯合特別陸戦隊司令官は大田実海軍少将。海軍陸戦隊は呉鎮守府第五特別陸戦隊(司令林鉦次郎中佐)、横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)。陸軍部隊/部隊長一木清直大佐。[85]
- ^ 支援隊指揮官は、第七戦隊司令官栗田健男中将[92]。
- ^ さらに低速の特務艦「宗谷」などは、6月6日の時点で船団部隊から分離、ウェーク島に向かっている。
- ^ 各船団の内訳は、
- 一番隊(速力16ノット):親潮、ぶらじる丸、あるぜんちな丸、清澄丸
- 二番隊(速力14ノット):黒潮、第二号哨戒艇、第三十四号哨戒艇、南海丸、善洋丸、五洲丸、吾妻丸、北陸丸、霧島丸、鹿野丸、第二東亜丸
- 三番隊(速力13ノット):第一号哨戒艇、あけぼの丸、慶洋丸
- ^ 船団部隊は6月13日、グァム帰投[107]。
- ^ 6月15日昼過ぎ、第二艦隊長官(近藤中将)、一航艦(南雲忠一中将、草鹿龍之介参謀長)、第四水雷戦隊・第十戦隊・十一航戦司令官は「大和」に集まり、連合艦隊司令部との打ち合わせをおこなった[111]。
- ^ 昭和17年7月14日付で、第一南遣艦隊司令長官は小沢治三郎中将から大川内伝七中将に交替した。
- ^ 指揮官西村祥治第七戦隊司令官)
- 第七戦隊:熊野、鈴谷(※1)
- 第二駆逐隊:村雨、五月雨、春雨、夕立[123]
- 第十五駆逐隊:親潮、早潮、黒潮(※2)
- ※1 第七戦隊所属の重巡「最上」はミッドウェー作戦で大破、修理中。
- ※2 前述のように昭和17年7月20日付で第十五駆逐隊に「陽炎」が編入されているが、B作戦時点では別行動。
- ^ 第十七軍司令部(司令官、作戦主任参謀)と大本営陸軍部参謀辻政信中佐など、陸軍の高級将校はラバウルで駆逐艦「五月雨」(水上機母艦「千歳」を護衛中)に乗艦、ショートランド泊地移動後に「親潮」へ移乗した[141][142]。
- ^ [149]。
- ^ 指揮官は第十五駆逐隊司令
- 第十五駆逐隊:親潮、早潮、陽炎
- 第二十四駆逐隊:海風、江風、涼風
- 第三十一駆逐隊:巻波、長波、高波
- 第十駆逐隊:夕雲、風雲
- ^
- 第十五駆逐隊:早潮、親潮、陽炎(「黒潮」は待機隊に区分)
- 第二十四駆逐隊:海風、江風、涼風
- 第三十一駆逐隊:高波、巻波、長波
- 収容隊:望月、天霧
- 輸送船団
- 第1分隊:長良丸、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸
- 第2分隊:山月丸、山浦丸、信濃川丸、鬼怒川丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸
- ^ 外南洋部隊指揮官:第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将直率部隊。鳥海、衣笠、五十鈴、朝潮。駆逐艦「満潮」(第八駆逐隊)は出撃直前に空襲で大破、ショートランド泊地に残置[179]。
- ^ 支援部隊指揮官は、第七戦隊司令官西村祥治少将。鈴谷、摩耶、天龍、夕雲、巻雲、風雲。
- ^ 小型機は空母「エンタープライズ」やヘンダーソン基地から、大型爆撃機はエスピリトゥサント島から飛来した[183]。
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- 土井全二郎『ガダルカナルを生き抜いた兵士たち』光人社〈光人社NF文庫〉、2009年3月。 ISBN 978-4-7698-2599-9。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年 ISBN 4-7698-1246-9
- 『南太平洋の凱歌 わが機動部隊の快勝』今日の話題社〈太平洋戦争ドキュメンタリー〉、1968年11月。
- 平間源之助 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記』イカロス出版、2018年12月。 ISBN 978-4-8022-0634-1。
- 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成 編『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻〉、1983年1月。 ISBN 4-7698-0611-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書2 比島攻略作戦』朝雲新聞社、1966年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書27 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書28 南太平洋陸軍作戦<2> ガダルカナル・ブナ作戦』朝雲新聞社、1969年7月。
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- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書38 中部太平洋方面作戦 (1) 昭和十七年五月まで』朝雲新聞社、1970年 。
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- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書49 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社、1971年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』朝雲新聞社、1972年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史部 編『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書77 大本營海軍部・聯合艦隊<3>―昭和18年2月まで―』朝雲新聞社、1974年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書83 南東方面海軍作戦 (2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。
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- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦3 空母 I 鳳翔・龍驤 赤城・加賀 翔鶴・瑞鶴 蒼龍・飛龍 雲龍型 大鳳』光人社、1989年9月。 ISBN 4-7698-0453-9。
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関連項目
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