初風 (駆逐艦)
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初風 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 神戸市、川崎造船所 |
運用者 | ![]() |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 陽炎型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1937年度③計画 |
起工 | 1937年12月3日 |
進水 | 1939年1月24日 |
竣工 | [1940年2月15日 |
最期 | 1943年11月2日、ブーゲンビル島沖海戦において戦没 |
除籍 | 1944年1月5日 |
要目 | |
基準排水量 | 2,033 トン |
全長 | 118.5 m |
最大幅 | 10.8 m |
吃水 | 3.8 m |
主缶 | ロ号艦本式缶×3基 |
主機 | 艦本式衝動タービン×2基 |
出力 | 52,000馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 35.5ノット (65.7 km/h) |
航続距離 | 5,000海里 (9,300 km)/18ノット |
乗員 | 239名 |
兵装 |
|
ソナー | 九三式水中探信儀 九三式水中聴音機 |
初風(はつかぜ)は、日本海軍の駆逐艦[1]。一等駆逐艦陽炎型の7番艦である[2]。1943年(昭和18年)11月上旬のブーゲンビル島沖海戦で戦没した。
艦歴
陽炎型駆逐艦全19隻のうち、川崎造船所で建造されたのは「初風」のみである[3]。 1937年(昭和12年)12月3日起工[4]。1938年(昭和13年)9月20日、「初風」と命名され[1]、同日附で艦艇類別等級表に登録[5]。 1939年(昭和14年)1月24日進水[4]。11月15日附で高橋亀四郎中佐(前職、駆逐艦「曙」駆逐艦長)が艤装員長に任命された[6]。11月20日、艤装員事務所を設置[7]。
1940年(昭和15年)2月15日、「初風」は竣工し[4][8]、同日附で高橋中佐が初代駆逐艦長となる[9]。呉鎮守府籍。「初風」は1月27日附で編成された[10]第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)所属となり、神戸から呉に移動して「雪風」に合流した。当初の第16駆逐隊は、陽炎型3隻(黒潮、雪風、初風)で編制され、第二水雷戦隊に所属[11]。10月11日に実施された紀元二千六百年特別観艦式では、「初風」は第16駆逐隊司令駆逐艦として式典に臨んだ[12]。11月15日、「黒潮」は第15駆逐隊に編入されて16駆を離れたが、陽炎型2隻(天津風、時津風)が漸次16駆に編入される[13]。
1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡「川内」艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職・第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した[14]。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(初風、雪風、天津風、時津風)編成で開戦を迎えた。
太平洋戦争
太平洋戦争開戦時の第16駆逐隊は、第1小隊(雪風〔駆逐隊司令艦〕、時津風)と、第2小隊(初風、天津風)に分離して行動していた。開戦劈頭、軽巡洋艦「神通」と「初風」「天津風」は第四航空戦隊の空母「龍驤」航空隊のダバオ空襲を支援した。その後、16駆4隻は南方作戦に従事してフィリピン〜東南アジアを行動する。レガスビー攻略作戦、ダバオ、メナド、ケンダリ、アンボン、クーパンの各攻略作戦に参加する。1942年(昭和17年)2月27日、スラバヤ沖海戦に参加。蘭印作戦終了後、内地へ戻った。
6月上旬のミッドウェー海戦では攻略部隊を乗せた輸送船の護衛に当たった。7月14日、艦隊の再編にともない、第16駆逐隊は第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)麾下の第十戦隊に所属する[15]。当時の戦力は以下の通り。
8月1日、第16駆逐隊司令は渋谷大佐(9月20日より軽巡洋艦「阿武隈」艦長[16])から、荘司喜一郎大佐(7月15日まで第11駆逐隊司令[17])に交代した[18]。第十戦隊所属各隊・各艦は8月上旬よりソロモン方面へ進出、ガダルカナル島の戦いに参戦した。初風は第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。10月26日の戦闘で南雲機動部隊の空母2隻(翔鶴、瑞鳳)が被弾損傷すると、2隻(初風、舞風)は空母2隻を護衛して避退(指揮官瑞鳳艦長)[19]。10月28日15時、トラック泊地に到着した[19]。 11月4日、第16駆逐隊(初風、時津風)は大型艦2隻(瑞鶴、妙高)を護衛して内地に帰投することになった[20]。11月9日、瑞鶴隊(瑞鶴、初風)は豊後水道にて佐世保へ向かう妙高隊(妙高、時津風)と分離、呉に到着した[21]。このため第16駆逐隊第1小隊(雪風、天津風)が活躍した11月中旬の第三次ソロモン海戦には参加していない。
呉に帰港後、「初風」は呉工廠で修理に当たった。 12月15日附で「初風」駆逐艦長は高橋中佐から岡三知夫中佐に交代する[22]。 さらに12月28日附で岡中佐から、前月まで「嵐」駆逐艦長[23]を務めていた渡邉保正中佐に交代した[24]。 12月31日、「瑞鶴」「秋月」「初風」「時津風」は横須賀を出港、1943年(昭和18年)1月4日トラックへ進出した[25]。同地で駆逐艦3隻は前進部隊に編入[26]。1月6日には修理を要する駆逐艦(長波、親潮、陽炎、涼風)の代艦として南東方面部隊に編入され、各艦は順次ショートランド泊地へ移動した[27]。
1943年(昭和18年)1月10 - 11日、「初風」は第六次ガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送)に参加する。駆逐艦8隻(黒潮《旗艦》、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)は、警戒隊4隻(黒潮、江風、初風、時津風)と輸送隊4隻(嵐、巻波、大潮、荒潮)、泊地待機隊(長波)に区分[27]。輸送隊は小発動艇2隻を曳航しドラム缶150個を積み込んでいた[28]。指揮官は第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将で、「黒潮」を旗艦とした[29]。警戒隊()と輸送隊は、それぞれが単縦陣を形成していた[注釈 1][30]。 午後10時以降、ガダルカナル島エスペランス岬周辺海域で「時津風」や「荒潮」と共にアメリカ軍魚雷艇と交戦中、「初風」は22時47分に魚雷1本を左舷艦橋附近に被雷、戦死者8名・負傷者12名を出して大破した[31]。通信装置と操舵装置が故障[32]。小柳司令官は「初風」の自沈あるいはガダルカナル島への擱座を検討していたが、「嵐」(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)とやりとりした結果、離脱命令を出す[33]。「初風」は「嵐」「江風」「時津風」に護衛されて約16ノットで退避[27]。零式艦上戦闘機7機、零式水上観測機11機に掩護されつつ、1月11日夕刻ショートランド泊地へ到着した[34][27]。4隻の帰還は小柳司令官に大きな感銘をあたえ、各艦乗組員と司令を「功績極めて顕著なり」と賞賛している[35]。「初風」の大破を代償とした輸送量は301トンであった[36]。
4月上旬、練習巡洋艦「鹿島」(第四艦隊旗艦)の修理が必要となり[37]、「初風」は「鹿島」と共に呉へ帰投[38]。7月12日まで修理に当たった[注釈 2]。 5月1日、第16駆逐隊司令は荘司大佐(5月20日附で軽巡洋艦「川内」艦長)から島居威美大佐に交代した[39]。修理完成直前の7月1日附で「初風」駆逐艦長は蘆田部一中佐(駆逐艦「長月」艦長[40]、駆逐艦「天霧」艦長[41]等)に交代した[42]。
7月31日、戦艦「武蔵」(連合艦隊旗艦、古賀峯一司令長官座乗)、第五戦隊(妙高、羽黒)、駆逐艦3隻(野分、白露、初風)という編制で内地を出発[43][44]。8月1日、横須賀発の3隻(軽巡洋艦「長良」、空母「雲鷹」、駆逐艦「曙」)と途中合流する[45]。合流後は「長良」座乗の第二水雷戦隊司令官高間完少将が警戒隊指揮官となった[46]。8月4日深夜、米潜水艦「スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) 」は「戦艦3隻」を含む日本艦隊を発見、翌日未明に計10本の魚雷を発射したがいずれも命中しなかった[47]。8月5日トラック着[48]。初風は一旦内地へ戻った。
8月17日、主力部隊[注釈 3]として呉を出撃し、8月23日トラックへ進出[3][50]。以降はトラック泊地を中心に各地への船団護衛に従事する。
10月6日、給油艦「風早」がアメリカ潜水艦「スティールヘッド」と「ティノサ (USS Tinosa, SS-283) 」に襲撃され、16時30分に沈没した[51][52]。「初風」と駆逐艦「海風」は急遽第十四戦隊司令官伊藤賢三少将の指揮下に入り[53]、まず「海風」が先行し、「初風」は軽巡「五十鈴」(第十四戦隊旗艦)と共に「風早」遭難現場へ向かった[51]。3隻は10月7日早朝に「風早」の遭難現場に到着したが同艦はすでに沈没しており、「海風」は生存者154名、「初風」は98名を救助した[54]。 10月30日、ラバウルへ物件輸送[注釈 4]。11月1日、『ろ号作戦』に参加する第一航空戦隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)航空隊基地人員・物件を搭載した第十戦隊・第二水雷戦隊各艦はラバウルおよびカビエンに到着した[55]。
沈没
11月2日、初風は軽巡洋艦/第十戦隊旗艦「阿賀野」の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に参加、重巡洋艦妙高と衝突し、米艦隊の集中砲火を受けて沈没した[3]。経過は以下の通り。
11月1日、連合艦隊は第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊を編制し、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高、羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:旗艦「川内」、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:旗艦「阿賀野」、駆逐艦《長波、初風、若月》)、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:駆逐艦《天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)という戦力を揃える[56]。連合襲撃隊はブーゲンビル島タロキナ岬に上陸したアメリカ軍に対し、逆上陸計画を企図していた[57]。だが輸送隊の準備は遅れたこと、アメリカ軍機の触接を受けたことから逆上陸作戦は中止され、輸送隊はラバウルへ避退した[57]。連合襲撃隊そのものは、アメリカ軍輸送船団を撃滅すべく進撃を続けた[58]。一方のアメリカ軍は日本艦隊の接近を知ると、輸送船団を護るためアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊を派遣した[59]。
11月2日0時45分、「時雨」の敵艦隊発見報告をきっかけに約2時間におよぶ夜戦がはじまった。当時の隊形は、主隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行していた[59]。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、「妙高」と艦位を失った「初風」の衝突を招いた[60]。「妙高」と「初風」の衝突時間は午前1時7分[60][59]。 その後、主隊(妙高、羽黒)は午前1時16分に射撃を開始したが、時雨の報告から26分も経過しており、主隊と第二警戒隊(阿賀野、長波、若月)は戦局にまったく貢献できなかった[60]。午前1時34分、大森司令官は「明日ノ敵機ノ来襲ヲ顧慮シ、全軍ニ対シ315度方向ニ避退スベキ」を電令して戦場からの離脱をはかり、米艦隊は敗走する日本艦隊を追撃する[59]。艦首を失い、戦場に取り残されていた「初風」はアメリカ軍駆逐隊の集中砲火を浴び[61]、午前2時57分に南緯06度00分 東経153度58分 / 南緯6.000度 東経153.967度地点で沈没した[59]。艦長以下164名が戦死した。翌朝、重巡「羽黒」からは僚艦「妙高」の前部左舷に「初風」の甲板がぶらさがっている光景が見られたという[62]。目撃した羽黒の下士官は「初風の額の皮」という表現を使っている[62]。
駆逐艦初風は1944年(昭和19年)1月5日附で不知火型駆逐艦、帝国駆逐艦籍、第16駆逐隊 のそれぞれから除籍された[63][64]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 駆逐艦長
- 高橋亀四郎 中佐:1940年2月15日[9] - 1942年12月15日[22]
- 岡三知夫 中佐:1942年12月15日[22] - 1942年12月28日[24]
- 渡邉保正 中佐:1942年12月28日[24] - 1943年7月1日[42]
- 蘆田部一 中佐:1943年7月1日[42] - 1944年1月5日[65](1943年11月2日 戦死、同日付任海軍大佐)[66]
脚注
注釈
出典
- ^ a b #達昭和13年9月(2), pp.15-16
- ^ #艦艇類別等級表, p.8
- ^ a b c 陽炎型 2014, p. 306.
- ^ a b c #艦船要目公表範囲, p.20
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940), p.70
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- ^ 陽炎型 2014, p. 115.
- ^ #紀元二千六百年特別観艦式・第二章, pp.14,32、#紀元二千六百年特別観艦式・第三章, p.1
- ^ #昭和15年12月巻1追録/第2類編制, p.1
- ^ 「昭和16年7月25日(発令7月25日付)海軍辞令公報(部内限)第678号 pp.41-42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
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- ^ 「昭和17年9月21日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第946号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086900
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- ^ a b c 「昭和17年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1013号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088600
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- ^ a b c 「昭和17年12月31日(発令12月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1022号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088700
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 410, 507.
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 507.
- ^ a b c d 戦史叢書83 1975, pp. 512–513.
- ^ #S1709八艦隊日誌(4), p.25
- ^ #S1801二水戦日誌(1), p.8
- ^ #S1801二水戦日誌(1), pp.29-30
- ^ #S1801二水戦日誌(1), p.17
- ^ #S1801二水戦日誌(2), p.57
- ^ #S1801二水戦日誌(2), pp.35-36
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- ^ #S1612四艦隊日誌(3), p.32
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- 『昭和19年1月~昭和19年7月 内令/昭和19年1月 (2)』。JACAR:C12070193900。
関連項目
- 初風_(駆逐艦)のページへのリンク