ソロモン海での輸送作戦(1)
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「水無月 (睦月型駆逐艦)」の記事における「ソロモン海での輸送作戦(1)」の解説
パラオ輸送後の1943年(昭和18年)2月6日から佐世保で整備と修理を行い、24日にソロモン海に向けて出撃した。25日、皐月、水無月、文月、長月の第22駆逐隊が復活した。第三水雷戦隊に所属し、金岡国三中佐が駆逐隊司令に任命された。水無月はラバウルを拠点に、3月上旬からレカタなどソロモン諸島方面で輸送任務に就いた。 3月7日、ニューブリテン島スルミ輸送中に座礁。文月の曳航で離礁した。3月は「水無月」は「文月」とともにレカタへの弾薬、糧食等の輸送(3月11日揚陸)とスルミへの101設の物件輸送(3月15日24時スルミ着)に、「文月」、「長月」、「皐月」とともにフィンシュハーフェンへの兵員などの輸送(3月30日揚陸)を行なった。 4月2日、「水無月」、「文月」、「長月」、「皐月」はカビエンからフィンシュハーフェンへの輸送任務に出撃したが、敵機に接触されたため引き帰した。その際、敵機の攻撃で「文月」が損傷した。ツルブへの揚陸に変更し、「水無月」、「長月」、「皐月」は再び出撃して4月8日に兵員などを揚陸した。4月14日、「水無月」はガロベ島へ佐五特の一部を揚陸した。 5月28日に長月、皐月と共にショートランド泊地を出撃するが両艦が座礁し、水無月は長月を救援して29日早朝に離礁した。6月2日、長月と共にコロンバンガラ輸送を実施した。 詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 連合軍が6月30日、レンドバ島に上陸した。日本軍は揚陸・補給部隊の撃滅を計画。7月1日、ブインにいた水無月、長月、三日月 とブカにいた天霧、初雪の駆逐艦5隻が集結して先行し、新月、望月、皐月、夕凪の駆逐艦4隻が後続したが会敵しなかった。その後、コロンバンガラ島の陸軍への夜間輸送で日米が激戦になり、4日は米駆逐艦ストロングを撃沈したが輸送は中止、5-6日のクラ湾夜戦は新月と長月が沈没して第三水雷戦隊司令部が全滅、輸送も一部しか成功しなかった。9日の輸送は妨害がなく成功した。 詳細は「コロンバンガラ島沖海戦」を参照 水無月は12日に皐月、夕凪、駆逐艦松風と輸送隊を編制して出撃、軽巡神通、駆逐艦清波、雪風、浜風、夕暮、三日月の警戒隊が護衛した。12日深夜に警戒隊と米艦隊が交戦し、コロンバンガラ島沖海戦が勃発した。この間に輸送隊は13日0時過ぎに揚陸を開始、約1時間で全輸送に成功した。警戒隊の神通が沈没し、水無月は皐月と共に神通の救援に向かうが生存者を発見できず、7時35分に救助活動を中止しブインに戻った。 17日朝、ショートランド泊地で給油中に空襲で損傷、この空襲で初雪が沈没した。ブインも18日に空襲を受け夕凪が損傷し、同日出撃した輸送隊には夕凪に代わり、水無月が加わった。輸送隊は水無月、三日月、松風の編制となり、重巡熊野・鈴谷・鳥海、軽巡川内、駆逐艦雪風・浜風・清波・夕暮が護衛してコロンバンガラ島に向かった。19日深夜に揚陸に成功したが、帰路に夜間空襲を受けて水無月は損傷。清波と夕暮が沈没した。20日午前に両隊は合同、ラバウルに帰投した。 ラバウルで応急修理後、30日に夕凪と共に輸送船白山丸・国川丸を護衛して出発。トラック、サイパンを経て8月10日に呉に到着、修理に入った 9月13日に呉を出撃、横須賀、サイパン、トラック泊地を経由しラバウル方面に到着。輸送作戦に従事した。9月28日、コロンバンガラ島からの撤退作戦(セ号作戦)に、皐月、文月と共に輸送隊として参加。駆逐艦7隻(秋雲、磯風、風雲、夕雲、天霧、夕凪、松風)が護衛などに就き、撤退を成功させた。その後も南洋で輸送作戦に従事した。10月25日、磯部慶二大尉が艦長に就任した。
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ソロモン海での輸送作戦(2)
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詳細は「ブーゲンビル島の戦い」を参照 10月31日、連合軍輸送船団の襲撃部隊が編制され、ラバウルで行動可能な全艦となる重巡妙高・羽黒、川内、駆逐艦5隻(時雨、五月雨、白露、文月、水無月)で出撃したが、天候不良で会敵できず帰投した。11月1日、連合軍がブーゲンビル島に上陸した。日本軍は逆上陸を計画し、先の襲撃部隊に軽巡阿賀野、駆逐艦長波、初風、若月を加え、水無月は文月、卯月、夕凪、天霧と共に輸送隊を編制した。同日午後に出撃したが、水無月は単艦でブカ島輸送を担当し、2日朝にラバウルに帰投した。襲撃部隊はブーゲンビル島沖海戦を戦い、川内と初風を喪失して米艦隊に敗れた。 3日、トラックからラバウルに向かった那珂、五十鈴、駆逐艦磯風・浦風、輸送船護国丸・清澄丸の船団が空襲を受け、清澄丸が航行不能になった。水無月はラバウルから救援に出動、清澄丸を曳航する五十鈴を磯風と共に護衛してカビエンに入泊。水無月は4日夜にラバウルに戻った。6-7日の夜間には軽巡夕張、時雨と共にブカ輸送に成功。7日夕には夕張と水無月で再びブカ島輸送へ向かうが空襲を受けて中止し、8日朝にラバウルへ戻った。 11日の第二次ラバウル空襲で駆逐艦涼波が沈没、阿賀野と軽巡能代はトラック泊地に撤退した。その後もラバウルを拠点に輸送作戦を継続するが、24日に駆逐艦大波・巻波・夕霧がセント・ジョージ岬沖海戦で沈没、ニュージョージア諸島方面への駆逐艦輸送は中止となり、損傷した艦は順次トラック泊地に後退した。水無月は12月3日に長波を曳航、夕張と文月の護衛でラバウルを出発し、8日にトラック泊地に到着した。 しかし12日には再びトラック泊地を出てラバウルに向かい、座礁した夕凪を曳航して離礁を助けた後、輸送作戦を再開した。23日、ガロベ島輸送中に空襲を受け小破。トラック泊地に後退、修理を行った。1944年(昭和19年)1月15日、第22駆逐隊司令は岡三知夫中佐に交代した。 1944年(昭和19年)2月になるとラバウルは連日空襲を受けるようになり、艦艇の大部分はトラック泊地に避退したが、水無月は輸送任務を続けた。2月12日、夕月と共にトラック泊地を出発、ラバウルを経て20日にニューブリテン島カブブ輸送を実施。2隻は24日にパラオに帰着し、トラック泊地から脱出した工作艦明石、駆逐艦秋風と合流した。これが南東太平洋方面での最後の駆逐艦輸送となり、日本の水上艦艇はラバウルからほぼ撤退した。
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