五原特務機関の全滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:57 UTC 版)
駐蒙軍の田中参謀長は、作戦構想の段階から五原の永久占領を主張していたが、岡部軍司令官は、現有兵力では五原の確保は無理であり作戦は土地の占有を目的としない、との考えであった。田中参謀長は軍司令官の意志に従い、「五原の確保に日本軍部隊を使用する」ことを断念した。しかし、五原確保のための日本軍部隊に頼らない手段を水面下で計画し始めた。その手段は以下のような方法であった。 特務機関を五原に推進してその統制下に 内蒙軍や青幇、懐柔工作で帰順した回教徒軍、匪賊団などで軍隊組織を構成して配置 蒙古政府の警察隊を増派する、など。 2月7日、それまで反対し続けていた岡部軍司令官はついに田中参謀長の熱意に折れて、内蒙軍を一時五原に残留させることを認可し、特務機関(長:桑原荒一郎中佐)の配置を指示した(警察隊の派遣は認めていない)。3月1日、最後の日本軍部隊が五原から撤退すると同時に、内蒙軍と帰順雑軍が内紛を起こすなど不安定な状態が続いた。田中参謀長は、その安定強化策のため蒙古政府警察隊に所属する日本人を投入していった。 3月20日夜、ついに傅作義の指揮する第35軍主力が五原に来襲した。特務機関員、警察隊、内蒙軍は応戦したが、帰順雑軍の反乱や一部内蒙軍の敗退が全般に波及して、同夜、五原は傅作義軍に占領された。桑原機関長ら特務機関員はなおも戦いながら援軍の到着を待っていたが、22日夜ついに全滅した。 駐蒙軍司令部は、直ちに安北警備隊、騎兵集団主力、第26師団の一部を急派させた。大本営も22日、この行動を追認した。25日、日本軍は五原北方の五加河で、渡河機材無しで敵前渡河を強行し、翌26日五原に突入した。(第二次後套進攻作戦)
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