作戦に至るまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:37 UTC 版)
インド政府はパキスタンと国境を接するジャンムー・カシミール藩王国の確保を優先させたため、同年11月29日にニザーム藩王国ととりあえず「現状維持」の暫定協定を結んだ。だが、インド政府はハイダラーバードが「中パキスタン」として、西パキスタンと東パキスタンとの間に成立してしまうことを懸念していたため、両国の対立は続くこととなった。 だが、1948年1月にウスマーン・アリー・ハーンがパキスタンへ2億ルピーの借款を提供することを発表し、インド政府がかねてから懸念していたような事態となった。当時、インドとパキスタンの間ではジャンムー・カシュール藩王国の旧領をめぐり、第一次印パ戦争が勃発しており、これは戦争中の相手に事実上の軍資金を提供する行為だとしてインド側を激怒させた。 さらに、ニザーム藩王国はアメリカUP通信の送受信所設置を認めたことや、ポルトガルの支配下であったゴア港を購入しようとして、事実上の独立国であるかのように振る舞い始めた。これらの同国の行為により、両国の対立は加速度的に悪くなっていった。 両国の対立の表面化はこれだけではなかった。インド側はこれとともに、インドの法定通貨であるインド・ルピーの使用をニザーム藩王国が拒否していること、ハイダラーバード産の貴金属のインドへの輸出を禁止したことなどを協定違反だと非難した。ハイダラーバード側もその一方で、インドが武器や弾薬のハイダラーバードへの輸出を禁止したことや、空輸の妨害、ハイダラーバードがインド国内で持っている証券などの資産凍結などは協定違反だと非難して応酬した。 同年5月以降より、インド政府はこれらの一連の対立を打開するため、ニザーム藩王国に対して経済封鎖を実施して圧力をかけ始めた。これに対して、沿岸部に領土をもたない内陸国のハイダラーバードの経済は悲鳴を上げ、8月には国連へ代表団を派遣し、この措置がインドによる「暴力的脅迫と侵略の脅威、不具化をもたらす経済的封鎖」だとして安保理に提訴した。ハイダラーバードが最大の頼みとしたイギリスは、ウィンストン・チャーチル首相ら保守党がハイダラーバードに対して同情的ではあったものの、インドの独立を許した労働党政権は黙殺した。
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