作戦での使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 21:55 UTC 版)
JDAMとB-2 ステルス戦略爆撃機は、アライド・フォース作戦でデビューを果たした。本作戦期間内に数機のB-2は、ミズーリ州のホワイトマン空軍基地から無着陸で30時間の往復飛行をこなし、合わせて650基以上のJDAMを投下した。 2002年の軍事調達ジャーナルの記事では「アライド・フォース作戦の間に…B-2は651基のJDAMを放ち96%の信頼性と計画された目標の87%に命中し…」と述べている。 しかし、いくらJDAMによって爆弾が精密に誘導されても、爆弾である限り正しく運用されなければ小さなミスが大きな惨事を引き起こす。 2001年12月5日にB-52が1基のJDAMをアフガニスタンで落としたが、それが親米派で対ターリバーン勢力のリーダーであったハーミド・カルザイとサイド・アリム・カライ、さらに、彼らを護衛していた特殊部隊群(SOF)のすぐそばに着弾し、味方を死傷させる事故が起きた。その時、カルザイ側の男達とそれを補う米国の特殊部隊による混成兵力が、ターリバーン兵の一大勢力に襲われており、ほとんど圧倒されつつあった。米特殊部隊の司令官は、ターリバーンを空から攻撃してもらおうと米空軍に近接航空支援を要請した。直ちに飛来した友軍機によって1基のJDAMが投下されたが、それはターリバーンの上にではなく、アフガン政府と米軍人達の上に落とされた。 事故調査で原因が明らかとなり、特殊部隊に随伴していた空軍の統合末端攻撃統制官(JTAC)が、GPS受信機の電池を戦闘中に何度か交換したために、「規定値」である「自らの座標の表示」という状態に戻してしまった。そのことに気づかないまま、自分の座標を爆撃に来援した友軍機に伝えてしまったために起きた悲劇であった。初期型JDAMのアライド・フォース作戦での成功によって、500ポンドのMk.82爆弾と、1,000ポンドのMk.83爆弾へも計画が拡大され、1999年末には開発が始められた。 不朽の自由作戦とイラクの自由作戦の間にいくつかの教訓を得て、海軍と空軍は移動目標へも使用するために、終末誘導用精密シーカーだけでなくGPS精度の向上も進めた。
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