作戦と初動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:35 UTC 版)
「北バージニア方面作戦」の記事における「作戦と初動」の解説
ポープの任務には幾つかの目標があった。ワシントンとシェナンドー渓谷を守ること、および南軍をゴードンスビルの方向に誘導してマクレランから引き離すことだった。ポープは、ゴードンスビル、シャーロッツビルおよびリンチバーグを繋ぐバージニア中央鉄道を騎兵隊で遮断させる事で、後の方の作戦を始めた。ハッチが指揮する騎兵隊の出発が遅れ、7月19日にはストーンウォール・ジャクソン軍14,000名がゴードンスビルを占領していることを発見した(ハッチが7月22日に鉄道を遮断する2回目の試みにも失敗した後、ポープはハッチを騎兵指揮官から外し、第3軍団ルーファス・キング准将師団の歩兵旅団指揮官に割り当てた)。 ポープはリンカーンから奨励されたもう一つの大きな目標があった。このとき初めて北軍は、戦争の過酷さを直接アメリカ連合国の文民に味わわせることで圧力を掛けようとした。ポープはこの件で3件の将軍命令を発した。将軍命令第5号は軍隊が「その土地で生きていく」(食料を地元で調達する)ことを指示し、「アメリカ合衆国に忠実だった市民」のみに戦後に払われる預かり証で、取り立てを受けた農民に弁償するというものだった。ある兵士にとっては、これが略奪や窃盗の公式の免許になった。将軍命令第7号と第11号は、北軍の後方で続いている南軍のゲリラの問題を扱った。ポープは、北軍に銃口を向けて発砲した家はどれも焼却され、住人は戦争捕虜として扱われると命じた。北軍の士官は「その戦線あるいは届く範囲内にいるあらゆる不忠な男性市民を逮捕」するよう指示された。これらの命令はポープの仲間であるマクレランの戦争哲学とは基本的に異なっており、この方面作戦中、2人の間に幾らかの敵意を疑いもなく生じさせた。アメリカ連合国当局は激怒し、ロバート・E・リーはポープの事を「ごろつき」と決めつけた。 リーは、七日間の戦いでマクレランと戦った経験から、マクレラン軍はもはやバージニア半島で脅威では無くなったと認識し、リッチモンドの直接防衛のために全軍を残しておく必要性はないと考えた。このことで、ジャクソンをゴードンスビルに行かせてポープ軍の動きを止め、同時にバージニアの中央鉄道を守らせることができた。リーは心に大きな作戦を描いていた。北軍はポープ軍とマクレラン軍に分かれており、その距離も遠く離れているので、マクレランに注意を戻す前にポープ軍を潰すチャンスだと考えた。 7月26日、リーは、伝説の騎兵でゲリラ戦士であり、捕虜交換から帰ってきたばかりのジョン・S・モスビー大尉に会った。モスビーは北軍管轄下のハンプトン・ローズ地区を通って帰ってきており、重要な海軍の輸送活動を目撃して、ノースカロライナ州で戦ってきたアンブローズ・バーンサイド少将の軍隊が、船で運ばれポープ軍の支援に回るものと推定した。リーは、バーンサイドの軍が到着する前に迅速な行動を採ろうと考え、翌日、A・P・ヒル少将に12,000名を付けてジャクソン軍との合流に向かわせた。一方マクレラン軍に対しては砲撃と陽動作戦でその注意を引き付けた。マクレランはハリソンズランディングからマルバーンヒルまで軍隊を前進させ、リーはその脅威に対応するために南に動いたが、マクレランは結局その前進を止めさせた。8月3日、北軍総司令官ヘンリー・ハレックはマクレランに半島からの最終的な撤退と、ポープ軍支援のための北バージニアへの帰還を命じた。マクレランは抗議し、8月14日までその再配置を始めなかった。
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