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1949年(昭和24年)秋に勃発した2リーグ分裂を受けてセントラル・リーグに属することになった中日ではリーグ初年を迎えるにあたって球団歌を作成することになり、同年1月25日付の中部日本新聞(以下「中日新聞」)1面に名古屋鉄道と連名で「ドラゴンズの歌」の歌詞を懸賞公募する旨の社告を掲載した。この社告では他に中日新聞の僚紙であった夕刊紙『名古屋タイムズ』が「女性向き」愛唱歌として「私のドラゴンズ」を中日・名鉄の「ドラゴンズの歌」と並行して懸賞公募する旨と、少年ファンクラブ「リトル・ドラゴンズ」の会員募集要項が掲載されている。この時点で既にコロムビアからのレコード発売で古関裕而が作曲を担当する旨を予告しており、歌唱者は「藤山一郎または伊藤久男」の予定とされていた。 審査結果は2月20日付の中日新聞1面に掲載され、応募総数は2953篇で名古屋市内からの応募作が入選、他に佳作として2篇が選定された。発表記事では審査委員として入選した歌詞の補作を行ったサトウについて「センチメントも加味した傑作で大のドラゴンズ・ファン」と紹介されていたが、19年後の1969年(昭和44年)には中日と同じセントラル・リーグのアトムズが選定した「アトムズマーチ」を手掛けている。歌唱者は前月の社告で候補に挙がっていた2名のうち、戦前に古関が作曲した巨人の初代球団歌「野球の王者」を歌唱した伊藤が起用された。また、B面曲で名古屋タイムズ社が選定した「私のドラゴンズ」(作詞:田中順二、補作:藤浦洸)も古関の作曲で、安西愛子が歌唱している。 「ドラゴンズの歌」が制定された1950年は2リーグ制元年と言うこともあり、中日以外にセントラル・リーグでは広島が初代「我れらのカープ」、パシフィック・リーグでは毎日が「わがオリオンズ」、東急が「東急フライヤーズの唄」、西鉄クリッパースが「西鉄野球団歌」、阪急が2代目の「阪急ブレーブスの歌」をそれぞれ制定した。このうち「東急フライヤーズの唄」は「ドラゴンズの歌」と同じく古関の作曲で、「西鉄野球団歌」はサトウが作詞している。
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「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」の記事における「作成経緯」の解説
巨人の初代球団歌は阪神から3年遅れて1939年(昭和14年)に発表された「野球の王者」であったが、第二次世界大戦による中断を経て1946年(昭和21年)に日本野球連盟のリーグ戦が再開された時点では既に演奏実態が無くなっていたため、1リーグ時代の最終年となる1949年(昭和24年)9月に2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」が歌詞の懸賞公募を経て作成された。 2代目の「ジャイアンツ・ソング」は10年余り演奏されたがファンの間で広く定着したとは言い難かったため、1963年(昭和38年)に球団創立30周年記念事業として3代目「巨人軍の歌」を作成することになり、改めて歌詞の懸賞公募を実施する旨の社告が読売新聞および『週刊読売スポーツ』に掲載された。 前回の懸賞公募(1万5539篇)を上回る2万892篇の応募から採用された入選作を初代「野球の王者」作詞者の西條八十が補作し、やはり「野球の王者」を作曲して以来24年ぶりの再登板となる古関裕而が作曲している。当時のNPB12球団においてはセントラル・リーグで阪神が戦前に発表され改題と一部歌詞の変更を行った「阪神タイガースの歌」を、また中日が2リーグ分裂時に制定した「ドラゴンズの歌」を、パシフィック・リーグでは東映が「フライヤーズの歌」といずれも古関が球団歌を作曲しており、この3曲に加えて巨人の球団歌に再起用されたことでセントラル・リーグ6球団の半数、NPB全体では3分の1に当たる4球団が同一作曲家による球団歌を使用する状況となった。 この3代目「巨人軍の歌」は5月4日に発表・制定され、過去2代と同じくコロムビアがB面に「巨人軍音頭 巨人はでっかいよ」を収録したシングル盤とソノシートを作成している。創唱者は守屋浩、三鷹淳、若山彰およびコロムビア男声合唱団で、ソノシートには当時の監督であった川上哲治と「ON砲」の王貞治、長嶋茂雄による挨拶が収録されていた。また、同年7月28日には読売映画社の制作、東宝の配給で3代目「巨人軍の歌」の歌い出しからタイトルを取った34分の記録映画『闘魂こめて』の上映が封切られている。
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1983年(昭和58年)の富山県成立100周年記念事業の一環として、1982年(昭和57年)6月から県と県芸術文化協会他の団体により構成される「富山県賛歌制作委員会」が歌詞の一般公募を実施した。審査結果の発表は同年10月23日付の北日本新聞で行われ「きみと歌おう想いをこめて」が最優秀賞となったが、他に「あなたが愛する町だから」と「ふるさと富山」の2編も選出されている。 初演奏は3編のうち「ふるさと富山」が1983年5月9日に開催された富山県置県百年記念式典で先行して実施された。他の2曲を含めた初演奏は9月11日に開催された第10回県民劇場音楽公演「青少年による第九」と併せて実施され、入選者に対する表彰もこの席上で行われている。
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1935年(昭和10年)末の球団発足後にオーナー企業の阪神電気鉄道社内で球団名の案を募集し、大阪と同様に工業都市のデトロイトを本拠地とするメジャーリーグのデトロイト・タイガースからの連想で「タイガース」に決定したことが翌1936年(昭和11年)1月10日に発表された。この発表は昭和初期に社会人野球の強豪として名を馳せたコロムビア野球部に所属していた若林忠志の入団発表を兼ねていたが、若林の母校であるハワイのマッキンレー・ハイスクール(英語版)が虎を意匠に取り入れていたことから同校の先輩で法政大学のアメリカンフットボール部創設に尽力した保科進に依頼し、母校のものをベースにした虎が吼える図案の提供を受けた。この図案は同年3月25日に甲子園ホテルで関西在住の各界名士らを招いて行われた球団の激励会でプログラムに印刷され、阪神電鉄社員でデザイナーの早川源一による補正を経て変わらず使用され続けている。この時のプログラムに虎の意匠や監督・選手の布陣と合わせて印刷されたのが、後々まで「六甲おろし」の通称で親しまれ続ける「大阪タイガースの歌」全3番の歌詞であった。 若林はコロムビア野球部で活動する傍ら、日本コロムビア(株式会社日本蓄音機商会)の社員として営業部に属していた人脈を生かし「赤城の子守唄」でヒットを飛ばしていた詩人の佐藤惣之助に作詞を、またコロムビア専属で早稲田大学野球部の応援歌「紺碧の空」や読売新聞社の主催で1934年(昭和9年)に行われた日米野球のテーマ曲「日米野球行進曲」などスポーツ音楽の分野で定評を確立しつつあった古関裕而に作曲をそれぞれ依頼したとみられている。2020年(令和2年)6月22日にNHKで放送された連続テレビ小説『エール』第61話では、窪田正孝演じる主人公の古山裕一(役柄のモデルは古関)が大阪タイガースからの依頼で球団歌を作曲した実話がストーリーに盛り込まれた関係で、阪神OBの掛布雅之がタイガースの幹部役で「大阪タイガースの歌」を熱唱するシーンが流れた。 佐藤は神奈川県、古関は福島県出身で両名ともタイガースが本拠とする関西と地縁のある人物ではなく、井上章一はプロ野球のシーズンが開催される夏に吹くのは殆どが浜風であることを踏まえ「佐藤は、阪神地方の気候について詳しくなかったのだろう」と指摘しているが、1930年代の職業野球草創期には大学野球に近い年2シーズン制が採り入れられており、優勝チーム同士で行われる年間優勝決定戦が12月初め頃に開催されたため、シーズンを戦い抜いたチームを讃える歌詞としては適当であったと言える。なお佐藤は「大阪タイガースの歌」を作詞する10年余り前の秋、すなわち六甲山地から南東に向かって六甲颪が吹き降ろす時期に阪神間を訪れ、甲子園球場から北東へ10km弱とほど近い兵庫県川辺郡伊丹町(現在の伊丹市)の墨染寺にある江戸時代の俳人・上島鬼貫の墓に花を手向けたことを1924年(大正13年)刊行の詩集『水を歩みて』で記している。 激励会の参加者には、記念品として奥山貞吉の編曲でA面に中野忠晴とコロムビア合唱団が歌う「大阪タイガースの歌」、B面にコロムビア管弦楽団演奏で一部にA面曲と共通の旋律を用いたインストゥルメンタル「大阪タイガース行進曲」を収録したSP盤(A-305)が贈呈された。このレコードはコロムビアに製造を委託したプライベート盤のため一般流通はしておらず、製造枚数は200〜300枚と推定される。コロムビアはもとより阪神球団の事務所やNHK大阪放送局、在阪ラジオ各局も所蔵していなかったため、長らく“幻の1枚”として扱われて来たが、1999年(平成11年)にレコード・コレクターの個人所蔵盤が地元紙の神戸新聞で紹介された。2003年(平成15年)にはコレクターからの提供を受けてアルバム『阪神タイガース 選手別応援歌 2003』(COCP-32157)への収録で復刻・CD音源化が実現し、2000年代後半からは『野球ソングス 大定番と貴重盤』(COCP-36066)など各種のコンピレーション・アルバムや『国民的作曲家 古関裕而全集』(COZP-375〜381)のディスク5を始めとする古関裕而作品のベスト・アルバムでも採録されるようになっている。 その一方で、古関は「大阪タイガースの歌」の発表から3年後の1939年(昭和14年)に読売巨人軍の初代球団歌「野球の王者」、日本のプロ野球が2リーグに分立した1950年(昭和25年)には「ドラゴンズの歌」(セントラル・リーグに加盟した中日ドラゴンズの初代球団歌)と「東急フライヤーズの唄」(パシフィック・リーグに加盟した東急の球団歌)を作曲した。ただし、「東急フライヤーズの唄」については、後に「東映フライヤーズの歌」へ改題するとともに旋律を改訂している。さらに、1963年(昭和38年)に作曲した「闘魂こめて」が巨人の第3代球団歌として採用されている。
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