球団発足
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「ニューヨーク・メッツ」の記事における「球団発足」の解説
1962年のナショナルリーグ球団拡張を期に誕生。球団名は都会っ子を意味するMetropolitansからとられた。チームカラーのうち、黒とオレンジはジャイアンツ、青はドジャース(いずれも1957年までニューヨークに本拠地を置いていた)のチームカラーから取ったもので、帽子のNYマークもジャイアンツが使っていたものが取り入れられた。本拠地にはかつてのジャイアンツの本拠地だったポロ・グラウンドを利用していた。初代監督には1949年~1960年にヤンキースの監督を務め、12年間で10回のリーグ優勝と7回のワールドシリーズ優勝を成し遂げた当時72歳のケーシー・ステンゲルが就任した。
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球団発足(オリオールズ)
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「ニューヨーク・ヤンキース」の記事における「球団発足(オリオールズ)」の解説
1900年1月に、それまでマイナーリーグであったウエスタンリーグを改組してアメリカンリーグと改称され、8球団でスタートした。これは、それまで12球団であったナショナル・リーグがこの年に8球団に再編成されたのに伴い、アメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンを中心として同リーグを新たに球団を増やして8球団制にしたものであった。この時にまだマイナー・リーグとしてナショナル・リーグの傘下に入ることであったので、フランチャイズにシカゴにも進出することもナショナル・リーグの承諾を得た。1900年のシーズン終了後にニューヨークで開かれたナショナル・リーグの会議で、ジョンソン会長は新たにワシントンとボルチモアにもフランチャイズを設けることの許可を求めた。バン・ジョンソンは始めから、アメリカン・リーグをナショナル・リーグに対抗するメジャーリーグにする意図であった。そのためには東部の大都市にもフランチャイズを置くことがどうしても必要であった。ナショナル・リーグは当然のごとく拒否したため、1901年の年が明けてからアメリカン・リーグをメジャーリーグとする旨の宣言がなされた。この時にアメリカン・リーグには、前年の8チームの内、カンザス・シティ、ミネアポリス、インディアナポリス、バファローを除名して、新たに東部のワシントン、ボルチモア、フィラデルフィア、ボストンを加えてこの年に8チームでスタートした。この時にジョンソン会長はニューヨークにもフランチャイズを置くことを企図したが、ナショナル・リーグの猛反発と、ナショナルリーグのニューヨーク・ジャイアンツのオーナーがタマニー・ホール(注:民主党の派閥組織)を動かしながら、政治的妨害に出る行動をとったため、代替案として新加入する地区の一つは前年にナショナル・リーグのチームを失っていたメリーランド州ボルチモアとした。この時に創設されたボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係)が後のニューヨーク・ヤンキースの起源となった。 1901年にボルチモア・オリオールズとして活動を始めたチームの最初の監督はジョン・マグローであった。ジョン・マグローはもともとバン・ジョンソンから新チームのオーナー兼監督兼三塁手として説得されてセントルイス・カージナルスから参加した人物であった。しかしこの2人は最初からうまくいかなかった。 ジョン・マグローは勝負に厳しくまた相手選手の走塁妨害などラフプレーを厭わない監督で、対してアメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンはナショナル・リーグのような規則の無いところでの荒っぽいプレーや喧嘩や騒動の絶えない野球ではなく、厳格なルールの適用と審判の権威の強化を目指していた。やがて決定的な対立が生じた。それはボルチモアからニューヨークへの本拠地移転であった。ジョンソン会長はニューヨークへの進出を諦めなかった。これに反抗したマグローは1902年のシーズン半ばにナショナル・リーグに鞍替えし、ニューヨーク・ジャイアンツの監督となった。その1週間後に、ジャイアンツのオーナーはオリオールズの支配権を取得し、オリオールズ選手の大量引抜きを行ったが、この強引な行動に対しアメリカン・リーグ側は即座にオリオールズの支配権を取り戻し、ニューヨークへのチーム移転を行った。 ア・リーグとナ・リーグ間の闘争に巻き込まれた形となったオリオールズの本拠地移転であったが、1903年に両リーグで「平和会議」を開催し、両リーグ間であった選手との契約を巡る紛争を調停し将来の協調を約束すると同時に、ナショナル・リーグは、リーグの中心的な球団にならないとの条件付きで、アメリカン・リーグがニューヨークにフランチャイズを置くことにも同意した。これにより、ジョンソン会長とアメリカン・リーグは念願のニューヨーク進出を果たす。この時に、相次ぐ主力選手の引き抜きで崩壊寸前であったオリオールズを当時1万8千ドルでフランク・J・ファレル(英語版)とウィリアム・スティーブン・デブリーが共同出資で買い取り、球団をニューヨークへ移した。新しいオーナーの最初の仕事は、ジャイアンツの妨害のない地域に球場設置場所を置く事であった。この両人は市政やギャンブル業界に強いコネを持っており、ファレルは競馬やカジノや複数の賭博場で財を成した人物であり、一方、デブリーはニューヨーク市警本部長であったが、1902年初頭に汚職が発覚して追放されたばかりで数々の違法ビジネスに手を染めていた。
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