野球との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:17 UTC 版)
「西鉄」の名前を日本全国に広めたのはプロ野球とも言える。西鉄は1943年に球団買収で西鉄軍を発足させ、日本野球連盟に参加したが、この年限りで解散している。 戦後、西鉄はプロ野球復帰を望んだが、西鉄軍は連盟に解散届を提出していたために復帰を認められなかった。そこで西鉄はアマチュア社会人野球チームを結成。1948年の第19回都市対抗野球大会では優勝を収める。社内ではこのチームを基に再びプロ野球に参戦しようという機運が盛り上がっていた。 日本野球連盟が2リーグ制へ分裂した1949年11月26日、西鉄は社会人野球チームを発展させる形で西鉄クリッパースを創設。1950年1月28日運営会社西鉄野球株式会社を設立し、パシフィック・リーグの一員として参加した。1951年には同じ福岡市(平和台球場)を本拠地としていたセントラル・リーグの西日本パイレーツを統合して西鉄ライオンズと改称し、以後1972年まで所有した。ライオンズは1956年 - 1958年の日本シリーズ3連覇を含めて5度のリーグ優勝に輝いたが、1969年に発覚した黒い霧事件で戦力・人気両面で致命的なダメージを受け、福岡市内線廃止問題も浮上したことで西鉄は1972年シーズン後に中村長芳に球団を売却する。チーム名は太平洋クラブをスポンサーとして太平洋クラブライオンズとなる。その後クラウンライターライオンズを経て1978年10月に国土計画へ売却され西武ライオンズとなり、本拠地は埼玉県所沢市に移転した。なお、西鉄野球として設立された運営会社は福岡野球株式会社・株式会社西武ライオンズと商号変更を繰り返しながらも現在まで存続している。 埼玉西武ライオンズはかつては西鉄を含めた福岡時代の成績や記録を自らの歴代記録に含んでこなかった。一例として、毎年発行されるファンブックに掲載される年表では、長年にわたり1978年の買収を球団発足とする記述がなされていた。ところが、堤義明をはじめとした西武グループ創業家一族の失脚によるグループ再編を受け、2008年1月末から球団公式サイト内の年表では福岡時代についても記述するようになっただけでなく、同年は西鉄創業100周年事業と西武球団としての30周年事業とが重なったこともあり、「ライオンズ・クラシック」と題して西鉄時代のユニフォームを復刻して試合で着用するイベントを行った。これに合わせて球団公式サイトでは福岡時代の歴史を大きく取り上げる など、これまでの姿勢を大きく転換した。このイベントには西鉄も後援企業として参加したほか、地元福岡では福岡三越とともに「よみがえる西鉄ライオンズ」と題した記念イベントを開催 し、独自の記念グッズも販売した。その後、西鉄の他に福岡野球が経営していたころや、戦前の西鉄軍の前身で、奇しくも西武の源流企業(現在の西武新宿線の前身)が経営に関与していた東京セネタースについても取り上げた企画を行っている。 現在はかつてのライバル球団・南海ホークスの後身である福岡ソフトバンクホークスを地元企業として後援し、2017年から同球団に復帰した川﨑宗則選手(アメリカ在住時はメジャーリーグ「シカゴ・カブス」所属)を西鉄電車イメージキャラクターに起用していた。川﨑は西鉄のCMやポスター(電車が主だが、同社の別事業にも一部出演)に出演し、西鉄福岡(天神)駅の一日駅長を務めたこともある。
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