廃止問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 15:13 UTC 版)
国鉄再建法による路線廃止の方針が表明されると反対の声が上がり、沿線町村より存続を求める陳情が行われた。ここでは通学・通院輸送や松前の観光輸送、青函トンネル・知内火力発電所の建設工事に対する影響を懸念するとともに、廃止対象の選定基準を見直すべきとの主張もなされた。 まず、松前線は函館との繋がりが強い路線であり、途中で松前線を分岐する江差線と一体的に考えるべきとのものである。木古内以西で比較すると江差線より松前線の流動が大きく、旅客の63%を占めているとした。しかし、存廃は線区単位で一律に判断するとの決定は覆らなかった。 なお、江差線は第3次特定地方交通線選定基準に該当する輸送密度4000人/日以下の路線であったが、ピーク時に片道1時間あたり1,000人以上を輸送する区間があるとして廃止対象から除外された。このため松前線より利用の少なかった江差線木古内以西は存続したものの、利用不振から2014年(平成26年)5月12日に廃止されている。 また、松前線の基準期間内(1977 - 1979年度)の輸送密度はおよそ1400人/日と第2次特定地方交通線選定基準の2000人/日を下回っていたが、平均乗車距離は29.8kmと特定地方交通線からの除外基準(平均乗車距離30km超、輸送密度1000人/日以上)に近いものであった。さらに、1979年度および1980年度を単独で見ると除外基準を満たしており、3年間の平均をとる場合でも「1978 - 1980年度」「1979 - 1981年度」ともに同様であった。このため、全国一律の基準期間ではなく直近の輸送状況から判断し、廃止対象から除外すべきと主張された。しかし、この点についても受け入れられなかった。 結果的に1984年(昭和59年)6月には廃止が承認され、松前線は第三セクター鉄道としての存続かバス転換を迫られることとなった。存続へ向けて「乗って残そう運動」も行われたが利用者の減少は止まらず、1984年度には輸送密度も1000人/日を割り込んだ。廃線協議は難航したものの、並行する国道228号の整備状況も良好であったため鉄道としての存続は断念され、1987年(昭和62年)に日本国有鉄道(国鉄)から北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1988年(昭和63年)2月に廃止。廃止後は、函館バスのバス路線に転換された。
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