プロ野球時代
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半田農業高卒業後は東海理化に入社し、補強選手として都市対抗に2年連続出場。 1981年のドラフト5位で阪急ブレーブスに入団し、1年目の1982年にはシーズン終盤の消化試合ではあるが、8試合に遊撃手として先発出場。1985年には8月から村上信一に代わり二塁手の定位置を得ると、同年は48試合に先発出場。1986年も準レギュラーとして起用されるが、1987年3月には内田強とのトレードで中日ドラゴンズに移籍。仁村徹の控えとなるが、1988年には出場機会が減少し、一塁ベースコーチ兼任となった1990年限りで現役を引退。 闘志あふれるプレーで「ガンちゃん」の愛称でファンに親しまれ、乱闘の際には同僚の小松崎善久と共に真っ先にベンチを飛び出すシーンがプロ野球珍プレー・好プレー大賞でよく放映されていた。しかし、その闘志は当時の首脳陣へのアピール的な部分もあった。1986年にはプロ野球珍プレー・好プレー大賞で珍プレー新人賞を受賞している。
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プロ野球時代
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契約金はなく、月給は5,000円だった。合宿所の1日の食費が200円で月6,000円引かれたため、1958年まで4年間実家から毎月1万円の援助を受けていた。東映入団に対して母親は猛反対していたが、土橋は「3年間で駄目だったら帰ってくる」と約束。のち、入団3年目の1957年に初勝利を挙げ、ぎりぎりの所で約束を守っている。 二軍時代の練習は、午前10時から練習を始めて約1時間の投球練習(約150球)、次にフリーバッティングの投手を務め、それから二軍戦に登板。さらに、土橋がモノになると見込んだ投手コーチの今西錬太郎によって、居残り特訓として約2時間の投球練習を課されるなど、1日の練習時間は7,8時間に及びほとんど投げてばかりいた。しかし、この過酷な練習のおかげで、一軍に昇格した頃には目を瞑っていても外角低め・内角低めに思うままに投げられるようになっていたという。 入団3年目の1957年8月1日の近鉄戦に完封でプロ初勝利を飾ると、終幕までに5勝を挙げて頭角を現す。翌1958年には21勝(16敗)防御率2.12(リーグ6位)と東映のエースとなる。同年5月31日の対西鉄戦では、1回2死で登場した四番・大下弘から三番・中西太まで9連続奪三振の日本タイ記録(当時)、そして沢村栄治の15奪三振を上回る1試合16奪三振の日本記録(当時)を樹立した。1959年にはオールスター前までに早くも20勝に到達。後半戦はペースダウンするが、杉浦忠(38勝)、稲尾和久(30勝)に次ぐ、27勝を挙げ、防御率2.36(リーグ5位)を記録した。 1960年は、開幕前の調整がうまくいかなった影響で12勝23敗と大きく負け越したものの、東映で2桁勝ったのも200投球回以上投げたのも土橋だけだった。土橋は球団から「12勝23敗だから年俸は10%ダウンだって言う。冗談じゃない。俺が一人で頑張ってんのに、何が10%だ!」。それで契約しないでいると、当時巨人のコーチであった川上哲治と選手の藤田元司から「巨人に来ねぇか?」と誘われたという。土橋によると「いろんな条件面も言ってくれてね。年俸は東映の倍だって言う。それは私だってプロだもの、心動きますよ。川上は今日はオヤジ(水原茂)は他の用事で来られないと言ってたけど、実はもうその時点で、監督が川上に替われるのは決まってたと思うな」と語っている。年が明けて土橋が東映と契約しないでいたところ、同年から東映の監督に就任した水原が「巨人の話は断った。俺は東映で契約のお金まで口出せる立場になった。だから減俸しない」と言われ東映に残留することになった。 土橋は水原について、「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないとダメ、優勝できないね。私は結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」と語っている。「巨人であれだけ実績を残した人が、東映へ来てまた一からチームを把握していったのだからすごい」とも語っていた。東映が「暴れん坊チーム」と呼ばれたことについては「だって山本に張本、白らがいただろう。見た目がそうだったんだよ」と笑い飛ばしていた。 1961年には30勝(16敗)防御率1.90とキャリアハイの成績を残したが、同年に稲尾和久が42勝、防御率1.69を記録したため、土橋はいずれも2位に終わるなどタイトルに関しては不運だった。1962年は17勝14敗、防御率2.38(4位)と勝ち星は伸びなかったが東映のリーグ初優勝に貢献。一方で、3度のサヨナラ本塁打による敗戦を記録している。阪神タイガースとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合に登板し、2勝1敗と活躍する。土橋は史上唯一、種茂雅之とともにMVPに2人選ばれた。第1,2戦で連続先発し、いずれも打ち込まれるが第5戦で好リリーフを見せサヨナラ勝ち。甲子園球場での第7戦でもリリーフで登板、延長12回1死でマイク・ソロムコを三振、更にルーキーの藤井栄治を一塁ゴロに仕留め、土橋はこの試合の勝利投手及びシリーズ胴上げ投手となっている。 1963年と1964年は連続で20勝に到達し、7年連続2桁勝利を挙げた。しかし1965年は肩痛もあって4勝に終わると、1966年は復活して6月26日に6勝目を挙げるも、7月14日の近鉄戦で激痛に見舞われ、右わき腹の筋断裂で全治3カ月と診断され、以降シーズン終了まで登板なし。1967年になると右手首痛や両足のアキレス腱痛もあって未勝利に終わり、同年限りで引退した。通算162勝は球団最多記録。 元同僚で、悪役俳優の八名信夫とは仲が良かった。
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プロ野球時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 09:52 UTC 版)
1961年4月20日、プロ野球による社会人野球選手の引き抜き協定が無協定状態のまま、シーズン中に中日ドラゴンズと契約し入団。この事に激怒したアマチュア球界は、長きにわたってプロ野球との関係を断つこととなる(柳川事件)。 1年目から一軍で起用され、三塁手、左翼手を兼ねて17試合に先発出場。しかし打撃面で低迷が続き、レギュラーには届かなかった。 1961年 - 1962年は外野手。1963年 - 1964年は内野手。1965年は捕手登録だった。1965年限りで引退。
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