プロ野球時代とは? わかりやすく解説

プロ野球時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 09:46 UTC 版)

岩本好広」の記事における「プロ野球時代」の解説

半田農業高卒業後は東海理化に入社し補強選手として都市対抗2年連続出場1981年ドラフト5位で阪急ブレーブス入団し1年目1982年にはシーズン終盤消化試合ではあるが、8試合遊撃手として先発出場1985年には8月から村上信一代わり二塁手定位置を得ると、同年48試合先発出場1986年準レギュラーとして起用されるが、1987年3月には内田強とのトレード中日ドラゴンズ移籍仁村徹控えとなるが、1988年には出場機会減少し一塁ベースコーチ兼任となった1990年限り現役引退闘志あふれるプレーで「ガンちゃん」の愛称ファン親しまれ乱闘の際には同僚小松崎善久と共に真っ先ベンチ飛び出すシーンプロ野球珍プレー・好プレー大賞でよく放映されていた。しかし、その闘志当時首脳陣へのアピール的な部分もあった。1986年にはプロ野球珍プレー・好プレー大賞珍プレー新人賞受賞している。

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プロ野球時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:04 UTC 版)

土橋正幸」の記事における「プロ野球時代」の解説

契約金はなく、月給は5,000円だった。合宿所1日食費200円で月6,000引かれたため、1958年まで4年実家から毎月1万円援助受けていた。東映入団に対して母親猛反対していたが、土橋は「3年間で駄目だったら帰ってくる」と約束。のち、入団3年目1957年に初勝利を挙げぎりぎりの所で約束守っている。 二軍時代練習は、午前10時から練習始めて1時間投球練習(約150球)、次にフリーバッティング投手務め、それから二軍戦に登板。さらに、土橋モノになると見込んだ投手コーチ今西錬太郎によって、居残り特訓として約2時間投球練習課されるなど、1日練習時間7,8時間に及びほとんど投げてばかりいた。しかし、この過酷な練習おかげで一軍昇格した頃には目を瞑っていても外角低め内角低めに思うまま投げられるようになっていたという。 入団3年目1957年8月1日近鉄戦に完封プロ勝利を飾ると、終幕までに5勝を挙げて頭角を現す。翌1958年には21勝(16敗)防御率2.12(リーグ6位)と東映エースとなる。同年5月31日の対西鉄戦では、1回2死で登場した四番大下弘から三番中西太まで9連続奪三振日本タイ記録当時)、そして沢村栄治15奪三振上回る1試合16奪三振日本記録当時)を樹立した1959年にはオールスター前までに早くも20勝に到達後半戦ペースダウンするが、杉浦忠38勝)、稲尾和久30勝)に次ぐ、27勝を挙げ防御率2.36(リーグ5位)を記録した1960年は、開幕前の調整うまくいかなった影響1223敗と大きく負け越したものの、東映で2勝ったのも200投球回以上投げたのも土橋けだった土橋球団から「1223敗だから年俸10%ダウンだって言う。冗談じゃない。俺が一人頑張ってんのに、何が10%だ!」。それで契約しいでいると、当時巨人コーチであった川上哲治選手藤田元司から「巨人に来ねぇか?」と誘われたという。土橋によると「いろんな条件面も言ってくれてね。年俸東映の倍だって言う。それは私だってプロだもの、心動きますよ。川上今日オヤジ水原茂)は他の用事来られないと言ってたけど、実はもうその時点で、監督川上に替われるのは決まってたと思うな」と語っている。年が明けて土橋東映契約しないでいたところ、同年から東映監督就任した水原が「巨人の話は断った。俺は東映契約お金まで口出せ立場になった。だから減俸しない」と言われ東映残留することになった土橋水原について、「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督それぐらいじゃないダメ優勝できないね。私は結婚して仲人水原だったけど、シーズン中水原会話もなかったし、一度褒められたことがない」と語っている。「巨人あれだけ実績残した人が、東映来てまた一からチーム把握していったのだからすごい」とも語っていた。東映が「暴れん坊チーム」と呼ばれたことについては「だって山本張本、白らがいただろう。見た目そうだったんだよ」と笑い飛ばしていた。 1961年には30勝(16敗)防御率1.90とキャリアハイ成績残したが、同年稲尾和久42勝、防御率1.69を記録したため、土橋はいずれ2位に終わるなどタイトルに関して不運だった1962年1714敗、防御率2.38(4位)と勝ち星伸びなかったが東映リーグ初優勝貢献一方で3度サヨナラ本塁打による敗戦記録している。阪神タイガースとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合登板し、2勝1敗と活躍する土橋史上唯一種茂雅之とともにMVP2人選ばれた。第1,2戦で連続先発しいずれも打ち込まれるが第5戦で好リリーフ見せサヨナラ勝ち甲子園球場での第7戦でもリリーフ登板延長12回1死でマイク・ソロムコ三振、更にルーキー藤井栄治一塁ゴロ仕留め土橋はこの試合勝利投手及びシリーズ胴上げ投手となっている。 1963年1964年連続20勝に到達し7年連続2勝利を挙げた。しかし1965年は肩痛もあって4勝に終わると、1966年復活して6月26日に6勝目挙げるも、7月14日近鉄戦で激痛見舞われ、右わき腹筋断裂全治3カ月診断され以降シーズン終了まで登板なし。1967年になると右手首痛や両足アキレス腱痛もあって未勝利終わり同年限り引退した通算162勝は球団最多記録。 元同僚で、悪役俳優八名信夫とは仲が良かった

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プロ野球時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 09:52 UTC 版)

柳川福三」の記事における「プロ野球時代」の解説

1961年4月20日プロ野球による社会人野球選手引き抜き協定が無協定状態のまま、シーズン中中日ドラゴンズ契約し入団。この事に激怒したアマチュア球界は、長きわたってプロ野球との関係を断つこととなる(柳川事件)。 1年目から一軍起用され三塁手左翼手兼ねて17試合先発出場。しかし打撃面低迷続きレギュラーには届かなかった。 1961年 - 1962年外野手1963年 - 1964年内野手1965年捕手登録だった。1965年限り引退

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