プロ野球現役時代とは? わかりやすく解説

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プロ野球現役時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 15:01 UTC 版)

真田重蔵」の記事における「プロ野球現役時代」の解説

戦前朝日軍時代1943年朝日軍入団。これは中学時代活躍注目した朝日球団オーナー田村駒治郎肝煎りよるものだった。田村入団時から真田に目をかけ、他の選手田村邸(一楽荘)の敷地にある合宿所住まいだった中で、真田だけを書生同じよう自邸離れ住まわせるほどだった。後年小鶴誠らとの不和には、生え抜きである真田いわゆる赤嶺一派属し大映スターズから移籍した小鶴らとの確執加えこうした差別待遇背景があったとされる1943年新人ながら13防御率1.98(リーグ7位)を記録し朝日の上進出3位)に貢献するまた、この年10月1日南海戦では9回まで無安打無失点抑えながら、延長10回裏2死から中野正雄に左前安打打たれ惜しくもノーヒットノーラン逃している(結局3-0完投勝ち)。職業野球傍らで、真田日本大学大阪専門学校(現:近畿大学)にも学籍置いていたが、これにより学徒みなされて、同年秋の学徒出陣により海軍に入隊する。このため戦前プロ野球での実績1943年1シーズンのみであった海軍で航空隊志願する不合格となり、1944年6月横須賀通信隊に配属されて、嶋と再会した。嶋と真田9月揃って和歌山由良紀伊防備隊転属したが、2ヶ月足らず真田特殊潜航艇要員として石川県に再び転属し、終戦迎えた戦後太平太陽松竹時代1946年田村新たに創設したパシフィック入団してプロ野球界に復帰関西の4チームによる正月大会から参加すると、寄せ集めチームの中で阪急相手冴えたピッチング見せた速球と「懸河ドロップ」を武器1946年から1948年まで3年連続20勝を挙げる1946年5月26日グレートリング戦で4失点完投勝利を収めるが、パシフィック監督藤本定義がこの試合に登録を認められていなかった藤井勇出場させたことから、この試合没収試合9-0グレートリング勝利となったため、真田勝利投手取り消されてしまう。さらに、真田暑さ酷使体力落ちていたためか、7月20日大阪戦に先発し3回途中9安打6失点ノックアウトされる。さらに、翌21日阪急戦でも先発し完投するも、22安打13失点2日連続滅多打ち遭っているが、この試合浴びた22被安打NPB最多記録となっている。シーズンではチームの全投球回数約半分達す4642/3NPB史上3位)を投げ2526敗、防御率3.15(リーグ12位)の成績を残すが、この年被安打422失点202自責点163はいずれNPB記録として残っている。この年8月宇高産業新たなプロ野球チーム(のちの宇高レッドソックス)を結成して日本野球連盟傘下の各球団主力選手巨人藤本英雄近畿安井亀和河西俊雄ら)に引き抜き攻勢をかけた際、ターゲットとなった真田支度金受け取ってしまう。これに気づいたパシフィックオーナーの田村駒治郎日本野球連盟鈴木龍二に対応を依頼し事態収拾させている。 1947年春先賭け屋(野球賭博関係者)と付き合いがあるとの疑いを受け、藤本から出場停止言い渡される真田潔白主張する藤本取り合ってもらえないうちに、今度国民リーグ松戸アスレチックス大塚幸之助から支度金5万円、月給7000円の条件勧誘受けた真田太陽ロビンスパシフィックから改名)に戻ることは不可能と考えアスレチックス契約結んでしまう。真田起用されないことに気づいた、田村駒治郎藤本真田呼びつけ経緯確認すると、5万円の小切手準備して松戸にいる大塚訪ねて真田アスレチック契約取り消させ、藤本に対して真田起用するように指示した結局真田シーズンでは2321敗、防御率2.38(リーグ14位)と活躍するが、この処置納得できない藤本シーズン終了後監督辞任してしまった。 1948年9月6日大阪タイガース戦で1リーグ時代最後ノーヒットノーラン達成遊撃手松本和雄の1失策があり完全試合逃すが、NPB史上初の無四死球となる準完全試合であったこの年5-6月に右肘の故障により約1ヶ月半休んだが、シーズンでは25勝(19敗)と3年連続20勝を挙げ防御率も2.21とリーグ6位につけた当時真田人気選手で、同年にはデイリースポーツ掲載した女性野球ファンによる座談会天保義夫阪急ブレーブスとともに登場している。1949年故障による不調で、1313敗、防御率4.13(リーグ19位)に終わった。 2リーグ分裂後1950年には最多勝となる39勝(防御率3.05〔リーグ8位〕)を挙げて沢村賞ベストナイン獲得しまた、投手ながら2本塁打36打点記録するなど、松竹リーグ優勝大きく貢献したちなみにこの年真田39勝とチーム98勝は、現在でもセ・リーグ記録となっている。同年日本シリーズでは、シーズン400近く投げた疲労により本調子でない中、第3戦と5戦に先発。3戦は6失点打ち込まれながらも完投してサヨナラ勝ち逆に5戦は2-2同点の9回2死まで投げるが右膝上肉離れ起こして降板、代わった大島信雄味方失策決勝点奪われ敗れ対照的な結果となった最終の第6戦ではケガをした三村勲に代わって途中から真田三塁を守る。7-7延長11回裏二死一・三塁の場面で伊藤庄七三塁ゴロ処理して二塁送球するが、野手走者交錯して金山次郎落球する間に毎日サヨナラホーム踏み松竹日本一逃した日本シリーズ終了後実施され最高殊勲選手MVP投票では小鶴誠12票に対し真田は7票(投票総数41票)で次点とどまり獲得はならなかった(これに関する詳細後述)。1951年それまで酷使で肘を痛め24試合登板(7勝6敗)にとどまる。同年12月肘痛完治する見込みがないため戦力外発表されるが、その日のうちに大阪タイガース移籍真田かわいがっていた田村駒治郎経営する田村駒業績悪化球団経営にまで手が回らず移籍田村知らない所で決まった戦後阪神時代1952年5月7日広島戦2回目ノーヒットノーラン達成同年16勝、防御率1.97(リーグ3位)を挙げて復活した通算打率.255と打撃もよく、現役晩年三塁手としても出場した1954年7月25日中日戦大阪スタヂアム)では、3点リードされ延長10回裏に代打として起用され三振終わったが、3ストライク目がファウルチップ捕手落球したとして、阪神松木謙治郎監督藤村富美男抗議ファングラウンドになだれ込んで試合一時中断し、この試合阪神放棄試合となった因果関係不明だが、この翌日7月26日より登録名本名真田重蔵変えている。 1956年登板機会はなく、三塁手のみの出場だった。同年オフ発生した藤村排斥事件では排斥派の一人となる。12月4日球団側から金田正泰とともに来季契約更改をおこなわない」との通告を受ける。球団側は12月25日金田復帰させたが、真田については「力の衰えから戦力ならないため」という理由方針変更せず真田そのまま退団した真田自身後年「(球団との仲介をした外部人間から)金田帰るからお前も帰ってこいといわれた。しかし、そんな気になれんかった」と述懐している。真田後日野球界一匹オオカミ真田けだった」と藤村富美男コメントしているのを読んだという。 プロ (NPB)通算178勝は、甲子園大会プロ野球両方選手として優勝経験した投手としては、2021年シーズン終了時点最多勝記録である。この記録には桑田真澄があと5勝まで迫っていたが、2007年メジャーリーグ移籍し未勝利のままで引退した

※この「プロ野球現役時代」の解説は、「真田重蔵」の解説の一部です。
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