日本プロ野球時代
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2005年にはパ・リーグに加盟する千葉ロッテマリーンズのチームコーディネーター(コーチ待遇)に就任、日本の野球へ適応できずに苦しんでいた李承燁の担当コーチとして、復活を影で支えた。また、今江敏晃、里崎智也の打撃指導も担当。韓国時代から選手の小さなフォームの変化による技術的な問題点を見抜く能力があり、李承燁のほかに、大松尚逸などロッテの若手選手たちにもその能力を認められ、彼らにもワンポイントアドバイスを求められるようになった。2005年シーズンの後、ロッテ球団は、李承燁の残留を目論む一方、金の指導能力を高く評価して2006年には1・2軍巡回コーチに就任させ、KBO出身者で初めてNPBの正式コーチとなる。2006年度シーズン限りで、契約満了に伴い退団。
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日本プロ野球時代
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「ゲイル・ホプキンス」の記事における「日本プロ野球時代」の解説
同年オフにメキシコ行きの準備をしていたところ、新たに広島東洋カープの監督に就任したジョー・ルーツから「勝つことをカープに教えて欲しい」と熱心な勧誘を受ける。ホプキンスはルーツの情熱に打たれ、メジャー時代より高い年俸(推定80,000ドル)の好条件もあって、日本行きを決断。ただし、医科大学へは予定通り進学したかったため、チームが優勝争いから脱落したら9月に帰国できる条件で、広島と契約した。 1975年に来日すると、主に一塁手として出場。この年の広島はシーズン後半に入っても中日ドラゴンズ・阪神タイガースと三つ巴の優勝争いを演じたことから、ホプキンスは帰国せずにプレーを続ける。広島が球団史上初のセントラル・リーグ優勝を決めた10月15日の読売ジャイアンツ第26回戦(後楽園球場)では9回表に勝負を決する3点本塁打を打つなど随所で勝負強さを発揮。打率は.256(リーグ28位)だったものの、33本塁打(同3位)、91打点(同2位)の成績を残した。 好成績によりもう1年契約を延長することになったため、メキシコの医科大学に連絡をしたところ、1年間入学を延期してもらえることになる。しかし、友人の勧めでシカゴにあるラッシュ医科大学(英語版)へ入学申請したところ、イリノイ工科大学で生物学(博士課程)の研究をしていたことなどが評価されて、入学が許可された。また、ホプキンスは広島で野球をプレーする傍らで、医者になるために、練習終了後試合が始まるまでの時間、遠征の移動時間などの空き時間を使って勉強を続けた。さらに同年9月に歯の治療で広島大学歯学部に行った際に、同大学医学部の藤田尚男教授を訪ねたことをきっかけに、1976年7月から8月にかけて研究生として藤田の研究室に通って実験に取り組んでいる。藤田から学んだ組織学の知識は、のちに医学を学ぶ際に非常に役立ったという。 翌1976年もチームの主軸として活躍、リーグ4位となる打率.329を打ったが、ラッシュ医科大学への進学のために、広島を退団して帰国する。大学の授業に出るようになって1ヶ月ほどたったころ、日系人の学部長から特別のプログラムを準備され、大学に通いながら再び現役復帰するよう指示を受ける。広島は既に新外国人としてジム・ライトル、エイドリアン・ギャレットを獲得していたため、ホプキンスは南海ホークスに入団。1977年に1シーズンプレーした後、現役を引退した。なお、この年にイリノイ工科大学で生物学の博士号を取得している。
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日本プロ野球時代
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1954年にハワイで選手探しをしていた新球団高橋ユニオンズのスカウト比嘉悦男の勧誘を受けて入団。7月7日の毎日オリオンズ戦に初先発・初登板するが5回5失点で敗戦投手となる。しかし、次の18日の東映フライヤーズ戦で初勝利を完封で飾ると、22日の毎日戦も2試合連続となる完封勝利を挙げた。1ヶ月半ほどの間に3勝(3敗)を稼ぎ、8月25日の西鉄ライオンズ戦に先発して4回無失点に抑えるも、翌26日に"右肩痛"を理由として突然帰国。実際はドゥールの本職はハワイの学校の教員であり夏休みを利用した2ヶ月の短期契約で来日、高橋球団側も野球協約(外国人選手との短期契約禁止)に違反しているのを承知で契約したと言われる。 ドゥールはハーバード大学出身でNPBに所属した最初の選手であり、2017年に東北楽天ゴールデンイーグルスにフランク・ハーマンが入団するまで同大出身者がNPBに所属した例は無かった。
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日本プロ野球時代
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「チャック・エッセジアン」の記事における「日本プロ野球時代」の解説
1964年に近鉄バファローズに入団。豊富なメジャー経験から中軸を期待され、開幕後しばらくは五番を打つが、4月半ば以降は六番や七番の下位打線を打つようになり、結局打率.263、15本塁打、41打点の平凡な成績に終わり、1年で退団、帰国した。なお、同年9月3日の対南海ホークス戦で投手のジョー・スタンカと投球を巡って乱闘に及ぶが、これが外国人選手同士1対1の初めての乱闘とされている。
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日本プロ野球時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:23 UTC 版)
台湾の文化大学から、1988年にドラフト外で日本プロ野球の読売ジャイアンツに入団。呂が1年目につけていた背番号97は、入団時の体重が97kgだったことに由来するが、巨人2年目となる1989年以降、背番号を12に変更している。当時、巨人にはウォーレン・クロマティやビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、最初は二軍生活を送った。 ところが、6月13日の対阪神タイガース戦(甲子園)で、クロマティが死球を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、呂は初めて一軍に昇格。翌14日のの対ヤクルトスワローズ戦(神宮)で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録した。その後もハイペースで本塁打を量産し、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(デビュー17試合で打率.379、10本塁打)と大暴れする。この活躍を受けて、セ・リーグ会長の川島廣守から会長特別賞が贈られ、その年のジュニアオールスターゲームとオールスターゲーム(監督推薦)の両方に出場することになった。当時、オールスターゲームの外国人枠は2人だったが、急遽3人に増設されたほどであった。後半戦は、疲労(球宴期間中に休めなかった)、弱点(内角の速球)を攻められたこと、成績下降に伴うフォーム改造、が原因で急速に成績を落とす。最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」と評された。元々は捕手のため強肩で、同年にはライトゴロで打者を一塁アウトにした事がある。 しかし、翌1989年になるとクロマティが復帰したことに加え、ガリクソン(1989年)やマイク・ブラウン(1990年)といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続いた(なお、二軍での成績は、1988年は.387、12本、34点、1989年は.333、15本、57点、1990年は.323、10本、45点)。出場機会に恵まれないまま、1991年10月のファーム日本選手権MVP獲得直後に退団。帰国にあたっては、早朝にも関わらず、羽田空港まで鴻野淳基・上田和明・佐藤洋らチームメイトが見送りに訪れたという。
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日本プロ野球時代
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「ジョー・スタンカ」の記事における「日本プロ野球時代」の解説
1960年に前年の日本シリーズで読売ジャイアンツを4連勝で破り日本一に輝いた監督の鶴岡一人が、連覇に向けエース杉浦忠の負担軽減のために、第2の投手の柱を熱望して、3月12日に南海ホークスに入団。また、かつて日米野球で訪日経験のある選手から、日本の球団はアメリカ人選手を欲しがっている、との話を聞いて、紹介してもらったキャピー原田にスタンカが日本行きを相談。原田が鶴岡に打診して、鶴岡が承諾したとの話も伝わっている。なお、この獲得の裏には、当時南海の唯一の外国人投手だった、ジョン・サディナがスタンカ獲得を鶴岡に進言した事もあったと言われている。日本のプロ球団に3Aクラスの外国人投手が加入したのはスタンカが初で、当時の日本野球の技術レベルならば即20勝前後の働きが可能と判断しての獲得だった。来日して記者会見を開いたとき、記者達は一様にその巨体に「大きい」と感嘆の声を挙げた。それを聞いたスタンカは、オクラホマ人を指す「オーキー」というスラングと勘違いし、「日本でも自分がオクラホマ出身だということはそんなに有名なのか」と錯覚したという。 来日1年目から、杉浦忠・皆川睦男とともに先発の三本柱として活躍し、赤鬼の異名を取る。同年は、杉浦に次ぐ17勝(12敗)、防御率2.48(リーグ6位)を記録、オールスターゲームにも選出された。シーズンオフは、税金面で有利だったことと、帰国しなくても球団から往復の航空運賃を現金で支給されることになっていたため、帰国せずに日本で冬を過ごした。 1961年も15勝(11敗)、防御率3.30(リーグ9位)をマークして優勝に貢献。同年の日本シリーズでは、1勝2敗で迎えた第4戦で1点リードの9回裏に杉浦忠をリリーフして登板。2死までこぎ着けるが、藤尾茂のフライを一塁手の寺田陽介が落球、長嶋茂雄のゴロを三塁手の小池兼司がファンブルするというエラーが重なり、満塁となる。ここで打席に入った宮本敏雄をカウント2ストライク1ボールと追いつめ、自信を持って投げ込んだ投球を球審の円城寺満はボールと判定した。野村克也は後年に「『文句なしにストライク、ゲームセット』と思って私はスタンカに駆け寄ろうとしたら円城寺審判は何と『ボール』と判定」、センターで守っていた大沢啓二も「ど真ん中よ。今度こそ勝ったと思ったね。ところが円城寺球審の判定はボール」と述べており、スタンカは円城寺に詰め寄った。ベンチからも全員が飛び出して「なんでボールや、ストライクやろ。」とまくしたてたが円城寺は「普通ならストライクになるボールだが、風があったので早く沈んだ。それでボールと判断した。」と説明した。野村によると「こんなわけのわからない説明で納得できるわけがない。このほかにも南海に不利な判定が何度もあった」という。試合再開後、次の球を宮本に痛打されてサヨナラ負けを喫する。この時、スタンカはバックアップに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた。この敗戦が影響して(ただし第5戦は勝利)、南海は日本シリーズに敗れる。同試合を見ていた商社マンが「円城寺 あれがボールか 秋の空」という川柳を色紙に認め、実業家に転身していたスタンカに贈った。その色紙は後年になってもスタンカの事務所に飾られていたという。また、後年テレビ番組の夫人を伴ったインタビューで、野村が「僕が早く腰を浮かせたから円城寺球審の死角になったのではないか。あれは僕のミスだった。」というコメントを見た際には「彼とバッテリーを組んでいたことを誇りに思う」と賛辞を送っている。野村は著書の中で「のちに円城寺氏は審判を辞めたが、それはあの球がストライクだったと事実上認めたからではないかと私は思っている」と著書に記している。最終の第6戦にも7回表から救援登板するが、延長10回に坂崎一彦に決勝打を浴びてサヨナラ負し、日本一を逃した。結局、このシリーズでは5試合に登板して1完封を含む2完投勝利を挙げ、敢闘賞を受賞している。 1964年にはキャリアハイの26勝、防御率2.40(リーグ2位)を挙げ、首位打者(.366)+盗塁王(72個)の広瀬叔功、42本塁打+115打点で二冠王の野村克也を抑えて、スタンカがシーズンMVPに輝く。この年は、両リーグ200回以上投球した投手の中でスタンカのみが故意四球なしという点にスタンカが誇りを持っていたという。さらに、阪神タイガースとの日本シリーズでは第1・6・7戦で先発し3完封の離れ業をやってのけ、南海の日本一に大きく貢献。日本シリーズMVPも受賞した(外国人初の受賞)。阪神の監督藤本定義は「スタンカに3度もひねられたのが敗因」と語った。翌1965年も先発投手として14勝を挙げる。しかし、シーズンオフの11月23日に長男が自宅の風呂場でガス中毒事故死したことから、不幸を断ち切りたいと帰国を決意して12月4日に南海を退団した。この年のスタンカ以降、ホークスの外国人投手の2桁勝利は長らく達成されず、デニス・ホールトンの登場まで44年を待たねばならなかった。 しかし、気持ちの整理がついたことから再来日を希望し、南海球団の仲介で翌1966年3月30日に大洋ホエールズ入りが決定した。背番号は南海時代と同じ「6」。これは日本びいきになっていた夫人の勧めでもあったといわれている。しかし、このシーズンはわずか6勝(13敗)しか挙げられず、防御率4.16はリーグ最下位と不振でわずか1年で解雇され引退した。9月27日の巨人戦で通算100勝を達成しているが、これが現役最後の勝利となった。
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日本プロ野球時代
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「ロベルト・バルボン」の記事における「日本プロ野球時代」の解説
阪急球団代表の村上実と懇意だったクリーブランド・インディアンスのスカウトがバルボンを良く知っていたことをきっかけに、阪急からのオファーを受ける。ハバナのホテルのロビーで、バルボンは村上から直接日本行きを誘われたという。来日前、日本・韓国・中国は同じ言葉を話すと思っていたほど日本の事情を知らなかった。加えて1953年に朝鮮戦争が終わったばかりであったため、日本ではまだ戦争をやっているのではと思い、バルボンは来日を相当迷ったが、とにかく1年だけ行ってみようと考え、1955年に阪急ブレーブスに入団。年俸は5,000ドルほどであった。 来日1年目からシュアな打撃と俊足を武器に活躍、一番・二塁手としてほぼフル出場し、打率.280(リーグ17位)、49盗塁(リーグ2位)を記録。163安打・105得点はリーグトップ、656打席は金山次郎を超える当時の日本記録であった。1956年もほぼフル出場して55盗塁(リーグ3位)、94得点で2年連続で得点トップに立つ。同年は佐々木信也と共に前年の最多打席記録を671打席に更新した(1963年に広瀬叔功が更新)。1958年にはチームトップの打率.268(リーグ11位)を打つ一方、38盗塁で盗塁王になるとともにベストナイン二塁手も獲得した。バルボンはこの頃の正遊撃手であった河野旭輝と、守備では二遊間を組んで見事な併殺網を敷き、打撃では一・二番を組んで二人ともよく走って、当時弱かった阪急の看板になった。この間、1956年・1957年は2年連続で河野が、1958年~1960年にかけて3年連続でバルボンが盗塁王になっている。 1957年までの3年間は、毎年オフにハワイにいる阪急の関係者から給料をドルの現金で受け取っていた。1958年オフに初めて日本で給料を受け取ってキューバに帰国すると、キューバ革命による内戦が起こっており、翌1959年1月カストロが首都・ハバナに入る直前にバルボンは日本に戻っている。革命によって日本・キューバ間の自由な往来が不可能になり、以降ほぼ30年に亘ってバルボンは祖国の土を踏むことができなかった。また、1960年(一説では1962年)に西宮球場の近くに住んで、よく試合観戦に訪れていたという妙子夫人と結婚。のち、一人娘を儲けている。 1959年以降、バルボンは2割台前半の低打率が続くようになるが、1963年までは正二塁手の座を守る。しかし、1964年に強打のダリル・スペンサーが入団すると、バルボンは守備固めに回るようになって出場機会が半減。同年末に近鉄バファローズにトレードされた。1965年は近鉄では再び二塁手のレギュラーとなり、5年ぶりに規定打席に到達するが、リーグ最下位の打率.231に終わり、同年限りで退団・引退した。 1964年に外国人選手として初めて1000安打を達成するとともに、2007年にタフィ・ローズが記録を更新するまでは、歴代外国人選手トップの最多出場数1353試合の記録を持っていた。2020年現在、外国人選手で盗塁王となっているのはバルボンとラリー・レインズの2人のみ。いずれも阪急所属時に記録している。
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